FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 栢樹子 17

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで趙州禅師が言われている「栢樹子の木にも仏としての性質がある」という言葉の意味は、栢樹子の木が栢樹木の木として生き生きと現実にあるかどうかという事を言っているのであり、仏としての性質が生き生きとして栢樹子の木の中に内在しているかどうかと言っているのである。

※西嶋先生解説   
その様な栢樹子の木の生き生きとしたあり方と言うものは、見る方の状態が生き生きとしているかどうかと言う事と関係がある訳です。坐禅の修行は何のためにやるかと言うと、そういう生き生きとした状態を常に保つためにやると言う面があるわけであります。趙州禅師が「栢樹子の木は仏としての性質を持っている」と言われた事は、趙州禅師そのものが仏の状態になっておればこそ、そういう事が言える。その時点においては、栢樹子の木は栢樹子の木として生き生きとしてそこにあるのだし、仏の性質は仏の性質としてそこに生き生きとしてあるという事を意味している。

本文に戻ります。
この様な言葉は、1人とか2人と言う真実を得られた少数の方々の究明したところではないけれども、およそ真実を得た人の様子をしている場合には、誰でもこの言葉が言えると言う性質のものではない。真実を得た方々の中でも、この言葉を口にする事が出来る方もおられると同時に、この言葉を口にするこ事の出来ない真実を得られた方々もいる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
芸術の世界ではイマジネ-ションという事で終始しているわけですが、これはいけませんか。

先生
いや、いけないという事はないけれども、それだけが実在ではないという事、頭の中に生まれた映像だけが実在ではないという事。だからそういう点では仏教思想というのは非常に実践的な教えです。まあこれは当たっているかどうか別として、福沢諭吉の自伝の中で、あの人は子供の時に神社のお守りが効くという事が信じられなかった。そこである日お守りをほぐして自分の尻を拭いてみた。そして数日間、罰が当たらないかと思ってびくびくしていたけれども罰は当たらなかった。

そこで神社のお札なるものについても自分なりの評価をしたという事が書いてある。だからそういう点では、自分自身の体験として勉強していくというのが仏教ですよ。これはなかなか骨の折れることでね。本を読んで「あの本にもいいことが書いてあった」とたくさんの知識が自分の頭の中に詰まっているという事も悪いことではないかもしれないけれども、そういう事だけで人生が生き抜けるかというと、中々難しい問題が人生にはあるという事。

そのことに釈尊は気が付かれたから、実際に役に立つ思想というものをつかまれて、それを人に教えられたという事が言えると思います。だから実践的な態度でないと釈尊の思想は出てこなかった。つまり国の王子としてその家庭の中で哲学書を読んでいたのでは仏教は生まれてこなかった。悩みに悩んでどうしても修業がしたいという事で29才の時に将来の国王という地位を捨てられたという事が仏教が生まれたことにつながっているわけです。自分が手を動かし、足を動かして勉強されたというところに仏教という思想が生まれてきた基礎があるわけです。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-