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正法眼蔵 栢樹子 16

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

趙州禅師がが「栢樹子の木が仏になるのは空間が地面に落ちる時だ」と言われているが、栢樹子の木と空間と一体何の関係があるのか。栢樹子の木が持っている性質と空間とは共通の性格を必ず持っているのかどうか。栢樹子の木がこの宇宙に存在している様子と言うものは、空間というものと同一の性質があると考えた場合、仏道修行の最初の境地なのか、仏道修行が済んだ最終の境地なのか、その問題についても詳細に勉強してみる必要がある。

そこで私(道元禅師)が趙州禅師に質問してみたい。 
「趙州禅師よ、貴方もまた一本の枯れた栢樹子の木であるから、枯れた栢樹子の木と同じ様な宇宙の中の実在であるから、いま貴方が述べられた様な生き生きとした境地というものを我々に伝えておられるのかどうか」と。

一般的に言うならば庭先に生えている栢樹子の木が仏としての性質を持った生き生きとした存在であり、極めて貴重な存在であると言う主張は、仏教を信じない人々の境地とは違うし仏教を信じている人々の中でも、理論だけで仏道を勉強しようとする人々、外界の刺激だけを通して仏道を勉強しようとする人々、別の言葉で言うならば仏道修行として坐禅以外の方法で仏道を勉強しようとする人々の境涯とは全く異なる。

また経典を教える師匠や仏教に関連した論議を教える師匠等が見たり聞いたりする事のやできるところではないのである。その様な消極的な生き方をして活力の失われた人々の言葉によってどうして説明する事が出来よう。趙州禅師のように坐禅に明け暮れる修行をされた方だけが「栢樹子の木にも仏としての性質があるが」という、生き生きとした実情というものを捉える事が出来るのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道は国家というような概念を認めているんでしょうか、それとも否定しているんでしょうか。

先生
いや、だからそこでね、認める、認めないは別にして、現に国家というものがあって、その中に我々が生きているという現実を無視することはできないわけですよ。で、そういう現実を離れたれた形での論議というものを仏教は嫌ったわけです。本当のいい結論は出てこない。

そうすると、我々が現に国家の中に生きていて、国家の力に守られているという事実そのものを無視するわけにはいかないと、こういう事がそういう問題を考える場合の一つの出発点になるわけです。いろんな国が寄り集まっていろんな動きをしているわけですけども、そういう国と国との間柄の問題で、どういうふうな立場でどう動くことが正しいのかというふうな、きわめて具体的な問題にならざるを得ない、そう言う問題があると思います。

最近右寄りの思想、左寄りの思想というのが盛んになってきて、街頭で両方とも大変大きな声で色々と言っているわけだけれども、私はああいう声を聞いていた場合に、あの人たちもご飯を食べなければならないという事をすぐに考えるわけですよ。これは非常におかしな考え方かもしれないけれども、私はそういう考え方をすぐする。そうして、ああいう生産的でない仕事に携わって、声をからして叫んでいる人の生活の原資がどこから出てきているのか、そういう問題の方がはるかに大事だ。そういうものを無視して社会問題を考えることはできない。

自分のお米を稼ぐことを誰かに任せておいて、しかも社会がこうあるべきだ、あああるべきだという論議が出来るのかどうか、そういう問題を私はすぐ感じる。非常に皮肉な見方かもしれないけれども。そういう点ではきわめて具体的に一歩一歩と歩いていくようなものが我々の現実の世界ですよ、それが宇宙です。

だから「我々の住んでいる宇宙全体は、まさに仏道修行者の日常の言葉に他ならない」といわれたのはそういう意味なんです。人間はご飯を食べて生きていくんだという事実を基礎にして問題を考えない限り、あるいは人間は衣類を着て生きていくんだという事実を考えない限り、本当の真剣な論議というものは出てこないんです。どっから小遣いをもらって大きな声を張り上げているんでは、本当の意味の社会活動になりえているのかどうか疑問だという風なことを私は感じるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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