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正法眼蔵 拍樹子 15

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

僧侶の質問に対して趙州禅師が「仏としての性質が柏樹子の木にはある」と言われているが、その言葉の意味は柏樹子の木も現にこの世界に実在しているし、仏としての性質もこの世界に実在していると言う意味である。この言葉を十分に理解して、釈尊以来綿々と説かれて来たところの最も大切なところを十分に理解すべきである。

この様な趙州禅師の言葉と言うものは、普通では中々言えない言葉である。ここで趙州禅師が」「仏としての性質が柏樹子の木にはある」と言われているのであるから、その実態と言うものがどう言うものであるかと言う事を解明してみる必要がある。栢樹子の木には、まさに仏としての性質が具わっているのであるけれども、その栢樹子の木の実情が一体どの辺の位置にあるかと言う事を考えて見る必要がある。

またこの栢樹子の木がどの程度の寿命を持っているか、どの程度の大きさがあるかと言う事を検討してみる必要があるし、どういう種類に属するかと言う事も尋ねて見る必要がある。栢樹子の木が庭先にもあるし野山にも沢山あるわけだけれども、そういう栢樹子の木が皆同じ性質のものなのかと言う事を具体的に調べてみる必要がある。

趙州禅師が言われた様に、栢樹子の木にも仏としての性質があると言うならば、栢樹子の木が仏になると言う事実があるのかどうか、栢樹子の木が仏道修行するという事実があるのかどうか、栢樹子の木が真実を得たいと言う気持ちを起こすという事があるのかどうかと言う事も検討して見る必要がある。そしてこの栢樹子の木は仏としての性質を持っているという事はあるけれども、修行したり、真実を得たいという気持ちを起こしたりする事がないと考えるべきなのかどうか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

    --つづき
質問
そうすると、現代人が苦しんだり悩んだりして、坐禅をするという苦しみと現代の世相から生まれる苦しみとがバランスしないと「そのうちやります」とか「どうも足がしびれて苦痛で仕方がない」という事で、坐禅に参加するチャンスがあってもやや敬遠する。ところがほんとに現実の生活が辛ければ、わらをも掴む心境で坐禅をするようになる。それで一ぺん坐ってみても中々続かない部分もあると思うんですね。それをさらに乗り越えたところがないと、いわゆる先生がおっしゃった仏道の発展というか、普及というか、それは望めないような気がするんですけれど・・・。

先生
そうそう。だからそういう点では、まあばかっ正直に道元禅師に惚れこまないとだめだね。これはもうそういう事だと思いますよ。「この方は素晴らしい」という事で、何でもかんでも信じ込む態度にならないと、坐禅なんか中々やってみようという気になりませんよ。ただ騙されたと思ってやっているうちに、坐禅というのがいかに人生問題の解決につながるかという事が実際問題として出てくるわけですよ。そういう性質があると思います。

だからそういう点では、やっぱり坐禅というものが好きになるというか、ぱり良さがわかるというか、これが大事だと思います。それで最初は「騙されても構わん」という事で機械的にやっていないと、坐禅の良さというのはわかってこないんですよ。そういう問題があるかと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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