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正法眼蔵 栢樹子 12

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

この問答の中で確かに庭前の栢樹子の木は客観的な事物であるけれども、趙州従禅師は「庭前の栢樹子の木を目の前の事物と見て、その事物を使って説明したつもりはない」と言う言葉になってくる。また僧侶が「和尚さん、客観的なそういう譬え話で説明をされてはわかりにくくて困ります」と言ったのである。

この様な仏道のやり取りと言うもの、仏道の実態というものは年を経た祠のように訳もなく尊いといった性質のものではない。古いありがたい祠ではないのであるから、時代と共に埋もれていくのである。その様な事情があればこそ、またその様な事情の中で、自分が一所懸命努力しようと言う境地も開けてくる。そしてその様な形で、この世の中の実態は中々わからないけれども、一所懸命努力して坐禅をしているという生活があればこそ、自分は客観的な事物をもってお前たちに説明している訳ではない。もっと仏道の真実を中心にしてお前に説明しているのだと。

単に庭前の栢樹子の木を客観的な物と言う譬えにとって説明している訳ではない。さらにその事情と言うものを人にどういう形で説明したらいいであろうか。その事を考えてみると南嶽懐譲禅師と大鑑慧能禅師との問答にあった様に、過去の方々も一所懸命努力しておられたけれども、自分もまた一所懸命努力しているという事に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき
質問
戦うという事は結局、武器を持つ、相手を傷つける、暴力だという事だと思うんですけど・・・。

先生
ですから仏道の立場からしますと、自律神経がバランスしていると戦う必要がないという結論は出てくるんですよ。だからそういう点では、常に戦うというふうな姿勢という事ではないわけですけれども、それと同時に人間社会の実情からするならば降りかかってくる火の粉は払わなければならないという事もあるわけです。火の粉が降りかかってきたらおとなしく焼かれて死んでしまいなさいという事は決して正しさではない。

だからそういう点では、我々の日常生活の具体的な現れ方の中でどう対処するかという事が仏道であって、平和とか戦争とかという概念的な問題で仏教は絶対の平和主義者であるという事が言えるのかどうか。それほど単純な教えではないんですよ。また我々の生きている世界はそれほど単純な世界ではないんです。だからもうどんな場面があっても戦わないのが仏道だという事は仏道からは出てこないと言えると思います。

質問
戦国の時代にも、道元禅師のお寺は武器を捨てさせて武器をちょっとでも持つ者は特に訓示して非常に厳しく武器に値するものを持たせなかった、それが本当の仏道者の行くべき道だと思うんですが・・・。

先生
そのことは事実です。道元禅師は寺院の中に武器を蓄えてはいかんという教えを残されています。ですから武器を寺院で持つ事を禁止していたという事、これははっきり言えます。それでまたね、ヘタな武器を持っているという事はなお危険なんですよ。街中での刃傷ざたの多くは、ヘタな武器を持っているという事が原因になっている場合がかなりあると思います。

質問
そうしますと、軍備と武器とは同じに考えられませんか。

先生
だからその点では、今日の世界情勢を考えていった場合に戦争のないことを希望するという事、これはもう基本的な立場としてあると思います。ただそれと同時に、[平和、平和」というふうに唱えていれば、あるいは祈っていれば平和が来るんだという考え方ではないという事もあると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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