FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 栢樹子 11

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

その点では、なかなか達磨大師の境地に到達し得ないと同時に、自分自身もなかなか限界があって達磨大師と同じ様な境地に常にいきうるとは限らない。それではお互いに欠けたところがあるかと言うとそんな事ではない。達磨大師も完全な人格として生きられたし、また我々も完全な人格として生き得る可能性がある。それでは全部が完全かと言うとそうではなくて、達磨大師も間違いを含んだ形で一所懸命生活されたし、我々も間違いを含んだ形で一所懸命生活をしている。

※西嶋先生解説
この辺が道元禅師の論理の非常に優れているところ。誰でも完全だと言って、ところがすぐその後では完全な事情もあると同時に、各人がそれぞれ誤りの中で生きておられる、それも人間の生活だと。

本文に戻ります。
この様に各人が誤りの中で一所懸命生きているのであるから、そこで初めて何が間違いで何が間違いでないかがわかって来る。何も音のしない所でも響きが聞こえてくる様な実情ではなかろうか。そしてからりと晴れた空の様に何のこだわりもない神秘的な実態というものがこの目の前にあって、それは自分に背くとか、自分に向かってくるとか、自分に従ってくるという事情は全くなく、ありのままが非常に優れた世界である。

その様な世界であればこそ趙州禅師は「祖師西来の意(達磨大師がインドから中国に来られた真意)とは何か」と聞かれた時に、「庭先の栢樹子の木と何ら変わらない淡々とした事実だ」と言われたのである。さらに庭前の栢樹子の木を、自分に背く、自分に向かってくる、自分に従ってくるという事がない厳然とした眼の前の現実だと理解した場合に、もっと具体的な立場で趙州禅師と僧侶とが寺の一室で問答をしている情景を考えてみるならば、庭前の栢樹子の木は疑いもなく客観的な事物である。客観的な事物でなければ、この場所に庭前の栢樹子の木があるはずがない。


              
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
現在の世の中でも仏道的な考え方から言えば、軍備はしないと、いわゆる憲法のあの無防備という事を仏道は目指しているんでしょうか。

先生
うん。仏道が武器を持たないというような原則はないですよ。それはどういう事かというと、例えば仏教の言葉で「破邪顕正」という言葉がある。仏教の信仰対象として、不動明王は片手に縄を持ち片手に剣を持っているわけです。だから仏道思想が常に平和主義だという事ではない、という事が言えると思います。そのことは戦うべき時には戦わなきゃならんのですよ。

戦わないことが常に正しさである、という風なことが言えるのかどうかね。そういう風な問題が我々が生きている人生にはあります。人類の歴史にはあります。仏道はそういう事も含めての思想です。だから何もケンカ好きでケンカばかりしているというような事は決して言っておられない。なるべく戦争はない方がいいという事は、これははっきり言えると同時に、正しさのためには戦わなければならんという事が人間社会にはあるという事、これもやっばり否定はしておられないというのが釈尊の教えだとみていいと思います。
               
                               つづく--


最後まで読んでいただきありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


                           
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-