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正法眼蔵 栢樹子 10

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

祖師西来の意(達磨大師がインドから中国に来られた真意)は、必ずしも正法眼蔵涅槃妙心(正しい宇宙秩序の眼目の所在、至福にして霊妙な心境)と言う様な、抽象的な言葉と一致するものだと理解すべきではない。逆に今度は具体的なものかというと、必ずしも具体的なもので祖師西来の意が表現できるかというとそうではない。具体的なものも単に客観的な事物として、主体的なものと相対立したものとして考えられた場合には、祖師西来の意と同じだと言う訳にはいかない。

僧侶が「祖師西来の意を一体どの様に理解したらよろしいのでございましょうか」と述べたけれども、この言葉は質問の意味だけではない。そうかと言って僧侶の考えている事と趙州従諗禅師の考えている事とが同じ事を考えていて、お互いに自分の同じ考えを坡瀝すると言う意味でこの言葉が述べられただけでもない。

この様に質問したまさにその瞬間においては、決して誰もが達磨大師のような個人的な実情というものを完全に同じ様に体験し理解するという事は決してありえないという事でもある。もちろん仏道修行によって同じ様な境地は得られるけれども、それと同時に各人が持っている個人的な実情というものまでも全て想像するという事は難しい。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生はすごくラッキ-でいらして、初めから道元禅師にぶつかったという事ですか。

先生
これはね、バカだったからです(笑)。いや、これはもう私は決して衒いでも何でもなしにそう言うことを非常に強く感じる。というのは、私はどうも人間がバカなところがあって、若い時からあまり名誉とか利得とかというものについての執着がなかった。だから、どれが本当かという事だけをバカっ正直に追っかけていったから、途中のところで満足できなかったんですよ。いろんな宗教の勉強に入っていっても、自分で納得がいかないと出てきちゃうわけです。だからあっちへ入って少しやってて「ああ、これはどうも納得いかん」というと出て来ちゃった。

質問
じゃ過去に先生は、これに突き当たる前に何かあちらこちら試行錯誤された・・・。

先生
それはもう色々とありました。ただ道元禅師の思想の勉強を始めてから「これはおかしい」という事で離れたいという気持ちが一回も起きなかったという事ですよ。だから道元禅師の思想が今日、価値があるという風に私は見ているわけです。

質問
お釈迦様は「嘘も方便」とい言ったという事が伝わってますけども、それもやむを得ませんか。

先生
「方便」という言葉が今日では嘘という意味を持っているわけですね。だけど本来の経典の意味は、様々な方法という意味でしかないわけです。そうすると説明の仕方によっていろんな方法が使われたというのが本来の「方便」という言葉の意味であって、決してお釈迦さんが嘘を言ってもいいという事を言われたわけではないという事があると思います。だからその点では、人に説明する場合にはいろんな方法を使った方がいいという事をお釈迦さんは言われたと言えるわけです。

質問
よく私の言う事は良心に恥じたとか恥じないとか、妙なところへ良心を持ってきちゃって、良心というものが赤々と火がついてるから「俺はバカ正直」とか何とか、そのことばかり言うという事も必ずしも正しいとも言えないわけですか。

先生
うん。それでね、良心というものぐらい当てにならないものはないんです。各人が自分の心の中で信じていることについては誰でも「俺は良心に誓って恥じない」という風なことを言うわけです。それがなぜ当てにならないかというと、人間の体の状態も変わるし、心の状態も変わるんですよ。自分の体の状態、心の状態がどういうところにあるかという事は本人ではわからない。

だから各人が自分の思っていることは絶対正しいと誰でもが思っているだけのこと。仏教はそのことに気が付いたから、心の状態を基準におき、体の状態を基準においた時にのみ正しさというものが出てくるという主張をしたわけです。だから良心、良心という事ぐらい当てにならないものはないと見ていいです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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