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正法眼蔵 栢樹子 9

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

その点では寺院の和尚も和尚としての日常生活が当然あるけれども、それだけがその人の全てではない。個人的な限られた範囲での生活も勿論あるけれども、人間としての広い立場での生き方も当然あるであろう。その様な考え方から見ていくと、達磨大師が西方から仏道を伝えられた意欲による影響を受ける事もなくそれなりの意味を持つようにならなかったという場所がどこにあり得よう。

なぜかというと、我々は頭の中で考えると客観的な環境、時代的な環境、地域的な環境というふうに考えるけれども、それらは達磨大師がインドから中国に来られた意向とまったく同じような意味的な内容も具えている。環境は物質的なものであって、客観的なものだとだけ考えるべきではない。しかしながら達磨大師の意向と客観的な環境と二つのものがあって、その二つのものがお互いに向かい合って並んでいると言う関係ではない。

達磨大師がインドから中国に仏道を伝えられた意向というものも、常にそれが正法眼蔵涅槃妙心(正しい宇宙秩序の眼目の所在、至福にして霊妙な心境)と言う抽象的な言葉と一致するものだと理解すべきではない。言葉の説明と言うのは実態をどうしても粗末にしてしまう。

※西嶋先生解説
普通、常識的に考えると祖師西来の意(達磨大師がインドから中国に仏道を伝えられた意向)は、正法眼蔵涅槃妙心(正しい宇宙秩序の眼目の所在、至福にして霊妙な心境)と同じものだと理解するわけで、とそれは頭の中で理解しただけ。達磨大師がお腹が空いて困ったなあというときの実感は、正法眼蔵涅槃妙心という言葉の中には中々含まれていない。達磨大師が人々から迫害を受けて困ったなあと思って大いに苦しんでいる時と、正法眼蔵涅槃妙心あるいは祖師西来の意というものと我々の頭の中ではすぐ結びつかない。だからそういう点では、我々の頭で考えることには必ず限界がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は仏教は変わらないものを勉強すると言いましたが、仏教には「諸行無常」と言って常に変わるんだという教えもあります。その辺はどういうふうに・・・。
  
先生
だからその変わらないものは固定して動かないという事ではなくて、我々の生きている人生そのものが、瞬間瞬間が人生なんだから、その瞬間瞬間の人生と言うのは当然変わっていく。しかしそういう原則というものは、何千年たとうと変わらないという考え方ですよ。

質問
今の場面とさっきの場面とこれから起こるだろうとされている場面とは、それぞれが独立して切り離されてると、そういう捉え方の「いまのいま」と言う事だけで。それが変わらないと・・・。

先生
そうです、そういう捉え方も含まれています。だから変わるとか変わらないと言う問題も四段階の考え方で見ていく必要があるわけであります。苦諦の考え方―理想主義的な立場からすると真理は永遠だという事です。集諦の考え方―物の立場から見ると、常に変化し常に壊れるのであり、永遠なんていう事は抽象的なエネルギ-については言えるとしても、個々の事物についてはありえないという事です。滅諦の考え方―現在の瞬間しかないのだから常に変化しているものであって、変わらないという事は絶対にありえない。道諦の考え方―坐禅の境地だから、2500年前の釈尊の坐禅と我々の坐禅は少しも変わらない。何千年たとうと何万年たとうと坐禅は坐禅だと言う捉え方も出来る。
      
だから仏教の立場からしますと、一方的に変わるものと言う捉え方もしないし、変わらないものと言う捉え方もしないわけです。ただ世間でものを考える場合には、変わるという事で突っ張る人と、変わらないものと言う事だけで突っ張る人と両方あるわけです。で、両方が相手の立場を理解しないと言うのが普通の立場で、そうするとどこかでケンカになってしまうという事があるわけです。
   
釈尊が説かれたのは、この世のあり方とは非常に複雑で、変わらない面と変わる面と両方あるという事です。その事がしっかりわかってこないと、我々がどんな世界に住んでいるかわからないという事を言われた。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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