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正法眼蔵 栢樹子 8

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師が注釈されます。

趙州禅師と僧侶の間の仏道に関する話というものは、趙州禅師の話として始まったけれども、それからたくさんの僧侶が真実をつかまれた場合に、その全身を挙げて仏道を探求し仏道を自分の体で体現する時に使われてきたところのものである。そしてその主題はいったい誰が主人公かという事である。いまここで述べられている基本的な考え方というものは、趙州禅師が示された庭先の栢樹子の木という言葉は、必ずしも客観的な事物としての庭先の栢樹子ではないと言う意味である。

※西嶋先生解説
「いったい誰が主人公か」というのは達磨大師の心境に関連して言うならば、達磨大師が仏道に自信をもって、「中国の人々に仏道を伝えてやろう」という思い上がった気持ちで中国に来られたわけではない。そういう点では人間の生き方というものは、主体的な生き方もあると同時に、環境に包まれた環境の所産という性格も同時に持っている。

だから仏道の思想というのは常に主体と客体とが重なり合ったところに実態を見ていくという考え方でありますから、したがって今度は逆に、普通は客体として見ることのできる庭前の栢樹子というものも、単に客観的な事物というだけの意味ではないというのがこの問答において説かれているところの趣旨となるわけであります。

本文に戻ります。
庭先の栢樹子の木が自分自身と同じもの、つまり意思を持って意欲的に動いている自分と同じものではないと言う趣旨でもある。なぜそういう事が言えるかというと、僧侶が趙州禅師に対して「客観的な事物をもってお答えになっては困ります」と 言った意味からするならば、単に客観的な事物だけではなしにもっと主体的なものも兼ねた形で説明して欲しいと言う趣旨でもあるし、また趙州禅師の立場からするならば、自分は庭先の栢樹子の木を客観的な物とのみ考えて説明に使ったわけではないと言われているから。


         
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は先ほどのお話の中に、経験したもの以外は信じない、そして納得しないとおっしゃいましたが、経験――体験でもよろしいですね、体験し得ないものもございますんですかね、先生のお話の場合。

先生
知識だけで満足すると言う生き方はいくらでもありますよ。本を読んで「いやあ、いいことが書いてある」と、自分が経験した事でも何でもないのに、「いやあ、これは素晴しい」と言う事で満足している、こういう生き方はいっぱいありますよ。
   
質問
それはいけませんか。  

先生
うん、それでは実際に役立つ思想が出てこない、と言うのが仏教の考え方ですよ。

質問
例えば先輩の貴重なお話などはどこに属しますか。

先生
先輩の貴重な話を聞くという事は意味があるし、またそういう事が現実に当てはまっているという事、これはあるわけだけども、自分の体験の中で「なるほどそうだ」と言う実感として受け止めない限り、単なる知識としてでは役に立たない、危険だと、そういう事です。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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