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正法眼蔵 栢樹子 7

趙州従諗禅師に対してある時僧侶が質問した。

僧問う:達磨大師がはるばるとインドから中国に仏道を伝えるために来られましたが、その真意とは一体どの様に理解したらよろしいのでございましょうか。趙州禅師言う:目の前に生えている庭先の栢樹子の木と何ら変わるところのない淡々とした事実だ。

僧問う:いや和尚さん、それはずるい。目の前にある事物を譬えにして説明されると私自身はなかなか納得がいきませんから、そういう目の前の事物ではなしに、もっと理論的にご説明をいただきたい。

趙州禅師言う:拙僧は庭先の栢樹子の木と言ったけれども、庭先の栢樹子の木を目の前の事物と見て、その事物を使って説明したつもりはない。
    
僧問う:それでは達磨大師がインドからはるばる中国に来られた真意はどの様なものでありましょうか。趙州禅師言う:目の前の栢樹子の木だ。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
我と言うのは、わがままの我ですね。

先生
それも含みます。

質問
その我をなくした方が人間は幸せですね。

先生
うん、ただそういうふうな事があり得るかどうかと言う問題ね。

質問
という事は・・・。

先生
我をなくそう、なくそうと思って努力しているうちはなくならないと言う実情があるわけです。坐禅は何のためにやるかと言うと、そういうものを乗り越えるためにやる。それは我と言うものをなくそうと努力して、目的を達成したいという状態ではない。そういう努力では決して我そのものがなくならない。

むしろそんなものはどうでもいいという形で、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている時に、我というふうなものがどこにあるのか見つけても見つからないと言う状態が出てくる。それが最後の状態という事で、それを言葉では表すことが出来ないから、有我と無我と両方書いたわけです。 

質問
そうすると修行という事は、あかをなくす事と一般に考えている様でありますが、これは坐禅をしていればいいという事ですか。
先生
うん、そのあかをなくすという捉え方自体がこの無我と言うふうな事を狙いにする考え方と基礎は同じなんです。あかをなくす努力が成功するかどうかと言う事について仏教は疑問を持つわけです。あかがあるとかないとかと言う事を乗り越えてしまわないと問題の解決に繋がらというのが仏教思想ですね。

普通の宗教や普通の道徳では、あかがあるからあかを洗いなさいというふうにいうわけだけれども、仏教ではそういう事を努力してみても達成不可能だ。むしろあかがあるとかないとかと言うふうな境地を乗り越えた時に、本来の自分の状態が出て来ると主張する。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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