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正法眼蔵 栢樹子 6

趙州従諗禅師が、ある時たくさんの人々に説示して言われた。
 
自分は南の地方で仏道修行をしていた事が30年に及び、その間ただひとすじに坐禅をした。諸君も仏道修行をして釈尊の説かれた教えの真実が何であるかを得たいと思うならば、理論を追求しながらとにかく一所懸命坐禅をしてみるがよい。3年、5年、20年、30年と経ち、まだ真実が把握できないという事情が仮にあったとするならば、拙僧の頭をもぎ取って、それで柄杓をつくり小便を汲むのに使ってもよい。

趙州従諗禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この様な誓いを立てられたところから見ると、まさに坐禅をして仏道を求めるという事は釈尊の説かれた真実というものを求める直接の道である。理論を究め坐禅を一所懸命すべきである。後の人々がに趙州従諗禅師の事を趙州古仏と呼んだ。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

我と仏教との関係を四諦と言うで4つの考え方との関係で述べていきますと、仏教には苦・集・滅・道と言う4つの思想がある訳であります。苦諦と言うのは、頭の中でものを考えると言うことが基礎になった考え方でありますから、この苦諦の考え方は我を中心にした考え方だという事が言えるわけであります。ですから1番目の苦諦の立場では我というものはあると言える訳であります。
                                      
 
2番目の集諦の立場では、先ほどの諸法無我と言う考え方があったという事からも、我のない状態と言うものが考えられる。

それから行いの立場、我々が一所懸命何かをしている立場というのは、よく「無我夢中」と言う表現で表わされる訳であります。したがって、3番目の滅諦の立場では、自分自身が行いをしている事には間違いないわけでありますが、それを自分の心で気づくほどの余裕がないと言う状態になる訳であります。

4番目の道諦の立場では、坐禅の時には確かに自分自身が坐禅をしているという事は間違いないわけであります。ですから我があると言えると同時に、この我というものが大きな全体の中に溶け込んでしまっている。だから我はあるんだけれども、我々はこれを区別してつかむことが出来ない。自分があるとかないと言う状態ではなしに、その両方を乗り越えた状態だ。

有我(苦諦)・無我(集諦)・無我夢中(滅諦)・有我無我(道諦)だからそういう点から仏教と我との関係を考えてみると、必ずしも単純に無我だけが仏教思想ではない。仏教ではある場面では我がないと言う考え方をするけれども、それが仏教の全てだと言うふうに考えると、仏教の誤解につながる恐れがあると言えようかと思う訳であります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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