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正法眼蔵 栢樹子 4

趙州従諗禅師がある時言われた。
 
あちらの家、こちらの家で煙が立ってご飯を炊いているようであるけれども、自分のところではご飯を炊く煙が立たない。饅頭とか餅団子とは昨年以来縁がなくなってしまった。今ではかつて食べた饅頭や餅団子の美味しさを思い出して、生唾を飲むばかりである。そういう問題を超越して仏道修行に励むという生き方もあるけれども、中々そうはいかなくてため息のみがしきりに聞かれる。
 
沢山の仏道修行者はいるが、その中で本当に仏道を求めている人は中々見当たらない。この寺を訪ねて来て仏道修行をしたいという人々も悟りを開きたいと思ってくる。だから悟りを早く開きたいという焦りだけで途中で食料が十分でないと、また別の寺に行ってしまう。

趙州従諗禅師の言葉について道元禅師が注釈がされます。
痛ましい話ではないか。食事を作るために煙を景気よく立てる事も少なく、粗末な食事さえ十分でなかった、たくさんの味付けした美味しい食事には、前年からお目にかからなくなってしまった。仏道修行者はたくさん来るのだけれども、その来る人々がそれぞれ「悟りたい、悟りたい」とやってくる。本当の仏道修行がしたい、坐禅をしたいという修行僧と言うものはやってこない。

自分がもう仏道修行の十分な成果を持って、そういう境地を携えてこの寺に訪れて来るような人と言うのは、沢山の人の中でも中々見当たらないようである。その様子と言うものは、賢者に出会いたいと言う願いを持ってくるところの仏道修行僧というものはいるかもしれないけれども、釈尊と同じ境地、達磨大師と同じ境地、本当の意味での仏道修行者と同じ様な境地になろう、同じ様な生活をしようと言う龍とか象とかと言う優れた動物に譬える事の出来る様な仏道修行者は中々見当たらない。


     
              ―西嶋先生の話―    
    --つづき

この三法印と四法印との関係は、四法印方一つ抜けたのが三法印でありますから、四法印で考えて見ますと、一切皆苦(苦)・諸法無我(集)・諸行無常(滅)・涅槃寂静(道)この四つが四法印と言われている特徴であります。この「四法印」をなぜ取り上げたかと言いますと、仏教の基本的な考え方には四諦と言う考え方がある。この四諦と言う考え方と、この四法印と言う四つの考え方もちょうど平行した関係にある。

一番最初の「一切皆苦」というのは、この世の中の全ては苦しみである。なぜ苦しむかというと、我々には理想というものがある、願望というものがあるというところから、「一切皆苦」という思想が仏教の一つの特徴だ。これは苦諦の考え方であります。

「諸法無我」と言うのは、我々の住んでいる世界というものを物として、客観的な世界として考えた場合には、主観的なものはない。机、畳、椅子とか、そういうものには主観的なものはない、自分自身と言うものがない。したがって、この考え方は集諦の考え方であります。

「諸行無常」と言うのは、我々の一切の行為は時間において行われている。固まった固定的なものではなく、常に瞬間瞬間において行われていると言う事で、滅諦の考え方と見合っている訳であります。

「涅槃寂静」と言うのは、非常に落ち着いた静かな心境、あるいは非常に落ち着いた静かな体の状態という意味でありまして、道諦に相当するわけであります。具体的に言えば坐禅の内容と言うわけであります。

この四法印の中で二番目に「諸法無我」と言う思想があるわけであります。ただこの「諸法無我」と言う言葉の意味は、我々の住んでいる世界と言うものを物と言う面から見れば、主観的な我と言うものはないと、こういう考え方でありますから、今日仏教が説かれる場合によく言われる「我をなくせ、我をなくせ」と言う考え方とは少し違うと言う事が言えるわけであります。

そうしますと、無我とか忘我と言う思想が一体どこから出てきたのか、それが本来の仏教思想なのかどうかと言う点が問題になってくるわけであります。
                                つづく--

 
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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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