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正法眼蔵 栢樹子 1

「栢樹子」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この「正法眼蔵」栢樹子の巻はどういう巻かと言いますと、中国の有名な僧侶で趙州従諗禅師という方がおられるわけであります。その方がある時、寺で坐っていたところへ弟子が来て「如何なるか是れ祖師西来の意」と言う質問をしたわけであります。祖師というのは達磨大師を意味するわけであります。

達磨大師がインドから遥々と中国に仏道を伝えられたわけでありますが、その達磨大師の真意というものはどういうものでありましょかという質問であります。それに対して趙州禅師が「庭前の栢樹子」とこう言う答えをされた。庭前の栢樹子というのは、庭先に植わっているところの栢樹の木だと。

栢樹とはどんな木かと言いますと、今日ではコノテガシワと呼ばれる木の様であります。コノテガシワは余り見かけませんが、葉が垂直に立っていて風が吹くと手を打つ様な形で葉が動くところからコノテガシワと言う名前がついている様であります。このコノテガシワの木は中国では、極めて普通にどこにでもある木のであったらしい。だから趙州禅師が坐っておられた庭先にも、このコノテガシワがあったので祖師西来の意とは何か、という質問を受けた時に目の前にあるコノテガシワの木と同じだと言われた。

この返事がどういう事を意味するかと言うと、単に答えはコノテガシワでなくてもいい。この部屋で言うならば、目の前の机だとか目の前の柱と同じだと言っても間違いではないわけであります。
         本文に入る前の先生の話は続きます。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

こういう哲学上のやかましい問題を話してまいりますと、こういう問題は我々の日常生活に余り関係がないと言う感じも出てこようかと思う訳でありますが、実はこういう問題が我々の日常生活の中に非常に密接な関係を持っているという事が言えると思います。我々の誰の生活についても、頭の中でこうしたい、ああしたいと考える事は大抵の人がやる訳であります。ただ、ああしたい、こうしたいと考えても、実際にはそのやりたいと思う事が実現しない。

そして実現しないとがっかりしてしまって、、いやあ、そんな出来もしない事を望んだってしょうがない。まあ、一杯飲んでテレビでも見ていた方が利口だ、と言う考え方が当然出て来る訳であります。ですから我々の日常生活でも、こうしなければならん、ああしなければならんと言う考え方と、どうせやったって駄目なんだから楽にしていようと言う考え方と、両方ある訳であります。

最初のこうしなければならん、ああしなければならんと言う考え方が苦諦の考え方であって、もうどうせこの世の中は人間の思い通りにはならないんだから、成り行きに任せて暢気にやりましょうと言うのが集諦の考え方と、こういうふうに見ていい訳であります。ですからこういう考え方は、我々の今日生きてる社会の中にも非常に流行している考えであります。

よく我々が社会問題を考える場合に、本音と建前と言う考え方があるわけであります。建前と言うのはよそいきの考え方、人に話す考え方。だから人に話す時は建前を基準にしていろんな話をするわけでありますが、腹の中ではそういう建前の話は到底実現しっこないと思っている。だから腹のそこでは、自分の本音に従って生きるという生き方をするわけであります。で、本音の考え方と言うのは、二番目の集諦の考え方、それに対して建前の考え方と言うのが最初の苦諦の考え方と、こういう事になる訳であります。

我々は大抵の場合に本音と建前を使い分けて器用に世の中を渡って行く、と言う事が今日非常に流行する生き方であります。ただそういう二つに分かれた生き方をしていると、一体どっちが本当なのかわからない。で、どっちが本当かなんて言う事はそう詰めて考えても始まらないから、まあ、成り行きに任せて、とにかく割り当て時間に美味しいものをできるだけ食べて、とにかく楽しい思いをして、と言う事で考える訳でありますが、そういう考え方をしていると何のために生きているのかよくわからなくなる、と言う問題がある訳であります。
                              つづく--

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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