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正法眼蔵 阿羅漢 15

百丈山の大智禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

基本的なものをしっかり把握し末端の事も粗末にしないという状態であるならば、自然に一切のものを超越する事が出来るであろう。一切のものを超越するという事は、現実の世界の中にしっかり入り込むという事であり、この世の中がありのままに見えるという事である。

仏教思想に到達したという事は、通り抜ける事の出来ない途轍もなく強固な関門に行き当たったという事でもある。その様な状態がすなわち四果といわれ阿羅漢といわれる状態である。阿羅漢の境地というものは、その頭のてっぺんも超越しているし、一番下の底辺も超越していて、全体が現に具体的なものとしてこの世の中に現れている姿を言うのである。さらにあれが残っている、これが残っていると言う事ではなくて、一切の状態がありのままに現れている姿を言うのである。

結局それでは、その様な状態を説明しようとするならば、一体どの様にいったらいいのであろうか。言葉を換えてその事を表現してみるならば、阿羅漢が一般人と同じ様な状態にある場合には、宇宙というものが阿羅漢に対して様々の障害となり、阿羅漢が仮に凡人の域を脱して聖者の境地になった場合には、この世の一切が阿羅漢を超越の境地に置くと言う表現で表わす事が出来る。

阿羅漢と言う主体とそれを取り巻く客観と言うものは、阿羅漢がしっかりして来れば宇宙もしっかりしてくる。阿羅漢がだらしなければ宇宙も悩みの種になって、途轍もなくおかしな世界になってしまう。そして自分自身が仏道修行をして阿羅漢の境地というものを現実に体験している状態では、阿羅漢が阿羅漢を拘束して出鱈目は出来ない様にしてくれるものである。人間だれでも永遠の時間の中で一所懸命の努力している状態というものが阿羅漢というものの状態でもある。

            「正法眼蔵阿羅漢」
            1242年旧暦 夏の5月15日
            観音導利興聖宝林寺においてたくさんの僧侶に説示した。



              ―西嶋先生の話―

この四諦と言う考え方はもう何回も話しておりますが、ある人にとってはもう飽き飽きして、「またか」という感じの話でもあろうかと思います。ただ仏教という思想を考えていく場合に、この四諦という考え方は非常に大切な思想でありまして、仏教の大切な考え方である現実の肯定と言う考え方をした場合には、やはりこの四諦と言う問題にも当然触れていかざるを得ないという事で、今日はその四諦という考え方についてまたもう一度考えて見る事にしたいと思います。

またこの四諦という考え方は、釈尊が真実を得られたのち、誰かに説法してやろうという事で、二人の師匠に説明しようと思って、自分のかつての師匠を見つけられたところが、その二人の方はもうすでに亡くなっておられた。そこで今度は自分が苦行をしていた時に一緒に苦行をしていた五人の僧侶に対してこの苦諦の話をしたと、こういうふうに伝えられております。釈尊が真実を得られてから最初にされた説法でありますから、仏教思想にとっては非常に大切だという事が言えると思います。

四諦と言うのは、申すまでもなくこの苦・集・滅・道と言う四種類の考え方であります。この苦・集・滅・道という四つの言葉にそれぞれ「諦」と言う字をつけて苦諦・集諦・滅諦・道諦と言う四つの考え方が「四諦」と言う言葉の意味であります。諦というのは考え方という意味であります。ですから四諦というのは四つの考え方という事であります。

苦諦
苦しみの原因になる考え方。苦しみの原因になる考え方というのは何かといいますと、我々の頭の中でこうしたい、ああしたいと言うふうに考える願い、あるいは理想といったものが苦しみの原因という事で、苦諦というのは西洋哲学の言葉で言うならば理想主義の哲学というわけであります。

集諦
この世の中と言うのは原子とか分子とか、非常に細かい物質の集まりであると言う見方で我々の住んでいる現実の世界を説明しようとする考え方でありまして、その点では集諦というのは今日の言葉で言うならば唯物論の考え方という事ができるわけであります。

滅諦 
理想主義的な考え方、つまり人間の頭の中で考えた事を大切にする考え方や(苦諦)、我々を取り巻いている物質というものを非常に大切にする考え方(集諦)の両方から離れて、一所懸命に日常生活の中で努力していくと言う考え方であります。ですから滅諦という考え方は、20世紀に入りましてから西洋でも盛んになって来た実存主義というものの考え方と同じような基礎に立った考え方という事が言えるわけであります。
                                   つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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