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正法眼蔵 阿羅漢 13

圜悟克勤禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。

この様に考えてくると、現在眼の前に存在するところの本来の様子をした僧侶というものは、俗世間を離れた真の阿羅漢と言う事ができる。阿羅漢というものの本質、あるいは外見というものが一体どういうものであろうかということを知りたいと思うならば、この圜悟克勤禅師の言葉で知る事が必要である。インドにおける議論を中心にした師匠たちが述べた言葉というものをむやみに頭の中で考えてはならない。中国の僧侶であるけれども、圜悟克勤禅師は正しく伝承された正統の継承を受け継いでいる真実を得た人であり先輩である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「聖書」のマタイ伝に黄金律と言うのがあります。自分のほしいものを相手に上げなさいと言う・・・。道元禅師はそういった点は、どういうふうにお考えなんでしょうか。

先生
人間と人間との間柄というのは、譲り合いと言うか分け合いと言うか、そういう分配の問題だという考え方が仏教にはあると思います。つまり自分を0にして相手に100やれと言う思想は仏教にはないんです。50と50で分けるとか、40と60で分けるとか、20と80で分けるとか分配の問題はある。人間と人間との間柄は分配の問題だという考え方、それが「法」だと言う考え方はありますね。だから自分を0にして、相手に100をやれと言う思想と言うのは仏教思想にはないんです。
   
普通の宗教にはよくそれがあるんですよ。自分を0にして相手に100をやりなさいと言う・・・。釈尊がどう言う事を言われたかというと「そんな事をしたら生きていられない」とこう言う事ですよ(笑)。だから仮に相手に99%やって、自分の1%は残さないと自分の生命が維持できない、そういう現実がある。「法」とは何かと言うと、そういう「現実」と言う事なんですよ。   

そういう否定する事の出来ない現実をしっかりと掴まないと、自分に出来もしない様な事を「やりなさい、やりなさい」と言って、人にすすめる様な結果になる恐れがあると言う事も釈尊の教えの中には含まれているわけです。だから釈尊の教えと言うのは非常に実践的な教えなんです。自分でやってみて、やれるかやれないかによって人間はどうしなければならないかを決めていく事が仏道というものの基礎にあるわけです。
   
仏教というのは非常に道義的なあるいは行動を大切にする教えだと言うのはそういう事にあるわけです。自分でやってみてやれる事とやれない事の判断をつけながら、どうやるべきかと言う事を考えていく立場が仏教にはあります。だからそういう点からすると、人と人との関係についても、どういう比率で分けるかと言う問題であって、自分をゼロにする事が最高なんだと言う思想は仏教思想にはない。そこが大事なところです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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