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正法眼蔵 阿羅漢 12

夾山の圜悟克勤禅師が言われた。

過去の仏教界の諸先輩方は釈尊の説かれた教えの真実を得た後、山奥の粗末な家に住み脚の折れた粗末な道具を使って食事を作り仏道修行を続けた。その様な生活が10年、20年と続きすっかり人間の普通の社会生活を忘れてしまって、長いこと塵にまみれた環境からはご無沙汰してしまっている。

今日の時代では必ずしもその様な状態は望まない。しかし人から知られたいという気持ちをなくしてひっそりと自分自身の仏道修行の生活に努力し自分自身のやらなければならないことをきちっと守った結果、一個の骨ばった老僧となって自分自身の体験が釈尊の体験と同じ様な状態になり、自分の力に応じてその仏道修行の結果得たところの境地を使いこなし、昔からの古い行いというものをすっかり忘れて、昔からの長年の習慣というものを問題のない様に解消してしまう。

そして余力があればさらに、その影響を他の人に及ぼし、正しい智慧の生まれる客観情勢を作り、自分の足やかかとを錬磨してさらに自分の体というものが周囲の環境と調和した状態に持っていく。譬えて言うならば、荒野の中で一人、あるいは半人と言う真実の仏道修行者を磨き上げ、その仏道修行者と一緒にこの世のあり方を知り、生き死にの問題を超越して、ますます将来現れてくる人々のために役立つ様な仏道修行をし、それにより釈尊の大恩に報いる努力をする。

密やかに人知れず仏道修行をしているけれども、しかし中身の価値はどうしても隠す事が出来ず、冬から春、夏を経て果実が成熟するように長年の仏道修行が成果を発揮した場合には、自ら大寺院の住職となり、その与えられた環境に従ってその環境に応じた努力をし、人々に教え導き、最終の段階においても、あれが得たいこれが得たいと言う気持ちで生きる事がない。

まして世間の権力のある人々に頼って、世俗におもねる師匠となり、その行状たるや一般の人々を欺き、真実を得た人々を無視し、利益を追及し名誉を貪るなどして、無間地獄に落ちるほどの罪を作ることがあろうか。自然の中に一人で仏道修行をしたまま、これと言って世間から知られる様な状態がなかったとしても、ただ日常生活を波乱なく送り、さらに過去の悪行による結果を持たない人は、真に塵の世間から抜け出したところの阿羅漢と言う事が出来る。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
まことに素朴な質問ですが「いったい何を頼りに生きようか」と聞かれた場合に、まあ我々には「坐禅しろ」といわれて(笑)、それはそれでいいわけですけど。

先生
まあ、私はやっぱり坐禅を頼りするという事を言いますね。ただもっと仏道の立場から四段階でいうならば、一番目は自分を頼りにしなさい、二番目が自然を頼りにしなさい、三番目は自分の行いを頼りにしなさい、四番目には坐禅を頼りにしなさいと、こういう四段階だと思います。自分を頼りにする、自然を頼りにする、行いを頼りにする、坐禅を頼りにする。

質問
自分と行いとはどういう風に違いますか。

先生
自分の頭の中で想像できるものが一番最初なわけです。行いというのは日常生活の中での問題。

質問
「自分を頼りにしなさい」と先生は突っ放しますが、自分を頼りにできるという自信がなかなか固まらないから、やっぱりそういう・・・観音様とか、神様とか、仏様とか、偉い人とか、極端なことを言えば占って見てもらうという、自分自身が本当に自信を持って頼りにならないから、迷うから、そうなるんだから、そこのところは、先生流に突っ放さないで、もう少し親切丁寧に詳しく説明してください。(笑)

先生
まず自分を頼りにするしかないんですよ、打つ手が。その次に頼りになるのは自分の欲望ですよ。お腹がすいたらご飯を食べなきゃならない、眠くなったら寝なきゃならない、そういう事につき従っていくという事が仏道修行の一つです。それと同時に社会生活では働かなきゃならない。まあ学生は学校の勉強をするという事でいろいろ立場はありますけどね、とにかく何かをしなきゃならないという事、これも仏道修行の非常に大切な内容です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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