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正法眼蔵 阿羅漢 10

我々の住んでいる現実の世界というものが、時間を越えて永遠の今と言う形で実存し運営が行われているのである。真実を見る眼玉というものをえぐり出してしまう様な力量と言うものを学ぶべきである

※西嶋先生解説
つまり、真実というものを掴むためには、眼で単に見ているという事だけでなしに、そういう眼の玉もえぐり出す様な徹底した見方をしないと真実と言うものが見えてこない。眼玉をえぐりだすような徹底した真実の見方とは何かと言うと、坐禅と言う事になる。足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っていた時のものの考え方、見方というものが、釈尊の眼玉をくりぬいてしまうほどの徹底したものの見方と言う事になる。
  
それは、あれだ、これだと言う先入的な思想をもとにして問題を考えている状態ではない。また過去の習慣に束縛されて動きの取れない状態で問題を考えているわけではない。そういうものを乗り越えて、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っている時の状態が真実を見る眼玉というものをえぐり出してしまう様な力量をもっている時であって、そういう状態を学ぶべきである。

本文に戻ります。
仮にこの世の中に、ほんの僅かでも余分なものがあると仮定するならば、宇宙全体が余分なものである。その事は宇宙全体にはほんの一欠けらも余分なものはないと言う事である。したがって、宇宙全体が疑い様のない現実であり実態である。


            
           ―西嶋先生の話―

釈尊の生まれる数百年前から、古代インドにはすでにバラモン教と言う教えがあった。この教えの説くところは、この世の中と言うものはブラフマンと言う神によって創られた。したがって、我々人間の中にもア-トマンと言うブラフマンの分身があって、そのア-トマンと言うものの力を発揮する事、つまり魂を発揮する事が幸福につながる道だ、と言う主張があった訳です。

それと同時に、そういう信仰が何百年も経つとだんだん力が薄れてきて、釈尊が生きられた時代には、六師外道と言う六人の思想家がいた。その六人の思想家が、今度はバラモン教とはまったく正反対にこの世の中は物が中心だと言う思想を説いていた。

そう言う二つの思想の流れの対立の時代に、釈尊は誕生された。そしてどちらを採るべきかと言う事に長い間悩まれて、様々な修行をされた結果、現実と言うものを発見された。我々は現実の世界に生きている。我々は法の中に生きている。だからその「法」がどういうものかと言う事をしっかり把握して、その「法」の教えに従って生きていく事が人間の最高の生き方だ、とこういう事を言われた訳であります。

そしてこの様に、我々は心だけでもなく物だけでもない現実の世界(法の世界)に住んでいるのである。その現実を学ぶ事、仏教を学ぶ事、それが我々が幸福に到達するための唯一最大の道である。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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