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正法眼蔵 阿羅漢 9

釈尊の説かれた教えと我々の住んでいる宇宙とは全く一つのものである。だから宇宙の現実があるだけで、特別に声聞乗があって、四段階の目標に向かって努力し、四段階の成果を得ることによって阿羅漢果が得られると言う特別の説明が必要なわけではない。阿羅漢と言えども、現実の宇宙の中で何とかして釈尊の教えを得たいと思って一所懸命に努力しているだけであるから、菩薩乗の場合や仏乗の場合と少しも変わりがない。

阿羅漢と言う仏道修行者は声聞乗の中で仏道修行すると言われているけれども、その阿羅漢が一所懸命に仏道修行するその舞台となっているこの宇宙も、その努力のまさにその瞬間においては、その舞台となっている宇宙は、八両、半斤と言う言葉で説明したりする必要のない程、厳然とした事実であり現実の世界そのものである。

ことさらにこの具体的な心とか、この具体的な仏とか、この具体的な物とかと説明する必要はない。そういう説明を必要としないほど直接の現実の事実である。真実を得られた方々と言えども、その宇宙の実態が何かと言う事を一所懸命のぞき見ようとしても、見ることのできるものではない。のぞき見しようとしなくても現に我々の周囲に現実の世界は現存しているわけだから、仏と言えどもそれをのぞき見しようなどという必要はない。



              ―西嶋先生の話―       

道元禅師は何を言われたかと言うと、偽物も本ものもそれぞれに価値はあるけれども、一番大切な事は自分自身が本ものになる事だ。自分自身が本ものになる事とは、坐禅をするということ。私がこういう事を言うと、どうも西嶋の意見は常に我田引水であると言う事になる。しかし私は長年坐禅をやって来て「こんないいものはない」と常にしみじみ感じる。だから、皆さんにも是非と言う事で勧める訳です。

坐禅と言うのは決して難しい事でも苦しい事でもない。ただ毎日やっているとわけもなく健康になる、気持ちが落ち着いて来る、ものがよく見えてくる。普段なぜよくものが見えないかと言うと、大抵は色んなその他諸々に引きずられているから。その他諸々がなくなってくると、ものが見えて来ると言う事が我々の人生にはあるわけです。坐禅はそういう点では非常に意味がある。
  
今日坐禅と言うものはそう高く評価されていない。だからやる人は非常に少ない。しかし実際にやってみると、坐禅ほど世の中の見方が素直になってくる修行法はない。我々のものの見方と言うものは、特別に体験を積んだとか知識が豊富と言う事よりも、余分なものがないと言う事の方が大事。素直に実態が見えるという事が非常に大切。経験とか知識とかも勿論大切だけれども、そう言うものから脱け出して素直に実態を見ると言う事が、我々の人生がどういうものかと言う事を見ていく上において、あるいは商売の上で実態がどうなっているかと言う事を見ていく上で非常に大切だと言う事が言えると思う訳であります。
  
我々の生活の実態は時々刻々入れ替わっている。だから3年前、5年前の実態と今日とでは入れ替わっている。その事を常に頭において常に変わった事態についていくためには、色々なものにこだわっていたらよく見えてこない。様々なこだわりと言うものから脱け出した時に実態がよく見えるという事情があるわけです。そのためには、何も考えずにジ-ッと坐っていると言う事が一切のこだりから脱け出すと言う修行。

そういう状態でものを見た時には、目の前のものがそのまま見えてくる。目の前のものがそのまま見えてくれば、人間、問題がない。ところが大抵は色んな解釈をして、あるいは色んな好き嫌いでものを見るから、そのまま見えないと言う問題があろうかと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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