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正法眼蔵 阿羅漢 7

法華経の方便品において釈尊が言われている。

もし仮に自分の弟子が、自分で「私は阿羅漢(声聞乗の最高の境地に達した人)である、辟支仏(縁覚乗の最高の境地に達した人)である」と言った人がいたならば、その人は仏はただ菩薩(行いを通して仏道を勉強する人々)のみを教化すると言う事実を聞いてもいないし知ってもいない。この様な人々は弟子でもないし、本当の意味で阿羅漢でというわけにはいかない。

釈尊の言葉について道元禅師の注釈です。
今ここで釈尊が「仏はただ行いを通して仏道を勉強する人々のみを教化する」と言われているけれども、その言葉の意味は、仏道修行の実態が単に知識だけの問題ではなしに、現実を知る、知らないの問題であると言われているのと同じ意味である。また、真実を得た人と真実を得た人とだけが、この。世の中をありのままに見られるという事と同じ意味である。そのことは別の言葉で言うならば、釈尊が説かれたところの最高で均衡のとれた正しい真実そのものの事である。

したがって、行いを通じて仏道修行をしている人々が自分は菩薩だと言い、真実を得た方々が自分は真実を得た仏だと言われた状態と、自分自身が自分は阿羅漢だ、自分自身が自分は辟支仏だと言った状態と同じであろう。なぜそのように言うかというと、自分は阿羅漢である、あるいは辟支仏であると唱えている人々も、日常生活の行いを通して仏道修行をしている人々に他ならない。阿羅漢と辟支仏と菩薩との間には、差異がないと理解する事ができる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
十戒のうちの不殺生戒ですね、必要であれば相手を殺しても構わんというふうに先生のお説にありましたね。

先生
殺しても構わんとは言わんけどね。(笑)

質問
奪っても構わんですか。

先生
いや、ただよその生命を奪わないと人間の生存はあり得ないという事ね。これは厳然たる事実ですよ。仏道が現実をよく見ろというのは、そういう問題も含んでいるわけですよ。つまりそういう現実を見ないで、生命を殺しちゃいかん、生命を殺しちゃいかんというふうなことで人間の救済になるかどうかという問題も含めて、現実をよく見なきゃならんという問題があるわけですよ。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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