トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 阿羅漢 5

法華経に言っている阿羅漢について道元禅師の注釈は続きます。

阿羅漢が持っている神秘的な働き、坐禅によって得られる身心の安定、釈尊の教えを説く事、教化して人を導く事、輝かしい光を放つ事などは仏道を信じていない人々における主張と同じはずがない。龍樹菩薩の「大智度論」の中では、阿羅漢の境地と言うものは100の仏の世界を見るものだと説かれている。その様な問題に関しても、凡夫が考えているような見方でそれを判断してはならない。

まさに異邦人の髭は赤いと言えると同時に、赤い髭の人を異邦人と呼ぶという言い方もあるように、主客を交互に入れ替えた理解の仕方である。「阿羅漢」とは本来戒律をきちんと守り様々な煩悩が尽き、自分の長所をしっかりと把握でき、こだわりがなくなって心が自由自在になった人の事を言う。あの人は戒律がよく守れている、様々な障害に悩まされていない、自分の長所をはっきり把握している、色々なものにこだわりがない、心が自由自在な人がいた場合に、あの人は「阿羅漢」であろうと言う捉え方も出来る。

阿羅漢の境地に達して、涅槃(非常に静かな至福の境地)に入ったと言う事は、日常生活で一所懸命無我夢中に何かをやって生きているという事である。この様に日常生活において何かを一所懸命にやる事によって、極めて平静な素晴しい心境が現れて来るのである。しかも、そういう状態から逃げようとしても逃げる事が出来ない。日常生活において生き生きとした状態で毎日を一所懸命に生きている人こそ、真の阿羅漢である。具体的な行いの世界に生きていなければ、阿羅漢と言う訳にはいかない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―                               

    --つづき
質問
それは歴史的事実としましてもね。そうしますと人間は仏教によって精神的な安定は得られなかった、救われなかったという状態が当然出てくるわけですよね。

先生
いや、ただ封建制時代にはとにかく死にさえすればいいんだという生き方の時代があったという事、これは否定できないと思います。これは一度お話したかもしれませんが、もう何十年前でしょうか「平凡社」から「日本残酷物語」というシリ-ズ本が出まして、その中の1つの物語として、農民でありながら一生の間お米を食べることが出来なかった人が無数にいた。そして各家庭に竹ずつのお米の粒をわずか入れて保存しておいて、死ぬ間際になった時にその竹を振って「これがお米の音だよ」と聞かせて息を引き取らせたという話が書かれておりました。

そういう形で社会生活を維持するためには、いかに沢山の人々がいかに苦しまなければならないか。そういう時代が長い間続いたという事。これは決して人間の責任ではないんですよ。ただ人間は生きざるを得ない、食料を得なければならない。そういう問題に直面して生産力が低い場合には、どうしても沢山の人が犠牲になって、その犠牲の上に社会生活を築かざるを得ないという事が事実として長い間あったわけです。

だからそういう点では、宗教問題にしても様々な思想があって、寺院の中に地獄の絵をかいて「お前たちは死ぬとああいう形になるかもしれないから、まあ心がけをよくして」という教えを非常に強く説いたという事も事実として長いことあったわけです。白隠禅師の伝記の中でも、子供の時にお母さんに連れられて寺院に行って地獄絵のあまりの怖さに恐れをなして、仏道を勉強しようという気持ちを持ったという事が伝えられていますけども。

ですから、我々は今日の時代を考えた場合に、いかに恵まれた時代に住んでいるかという事、これはもう腹の底から感じざるを得ない、感ずるべきだと思います。ところが多くの人は、「どうも世の中は面白くない」という事で、どんな時代でも不満を持っている。かといって、それじゃ直せばいいんだという事で積極的な努力もあまりしないで、「まあ一杯飲んで時間を過ごせばいいんだ」とか「愚痴を言って世間話をしていれば一番いいんだ」とかという生き方になりがちですけれどもね。
                                       
                              つづく--


いつも読んで下さってありがとうございます。 よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-