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正法眼蔵 阿羅漢 4

法華経に言っている阿羅漢について道元禅師の注釈は続きます。

この様な状態に阿羅漢はおかれているのであるから、目の前の垣根が垣根として、眼の前の壁が壁として、眼の前の瓦が瓦として、眼の前の小石が小石としてちゃんと見えるのである。ここで心が自由自在の境地に達したと言われているけれども、その境地とは心が全機能を発現している状態である。また阿羅漢の境地として様々な障害が全くないと言う言葉で形容されているけれども、本来我々の人生の中で煩悩、障害などと言うものは有り得ない。

※西嶋先生解説
こういうご説を聞くと「いやあ、そんなことはない。私の生活なんか苦しくて苦しくて、不自由で不自由でしようがない」と誰でも思っている。だから「正法眼蔵」に「無復煩悩は、未生煩悩なり」本来煩悩などは初めからないんだというふうに言われると「いや、それは実情となんか違う」というふうに、皆さん障害が好きだから、大体そいう障害から外れたくないと思う。

なぜ障害から外れたくないかというと、それほど結構な世の中だと自分が惨めになって来る。自分がいつもこんな難しい世の中で苦労に苦労を重ねてやっと生きていると思い、それが自分の本来の姿だと思えば安心が行くわけです。道元禅師のように「未生煩悩なり」といわれると、「いや、そんな結構な世の中じゃ私の生活が惨めすぎる」という事になるから、「未生煩悩」という様な思想はあまり好きではない。ただ本当の事は本当の事。道元禅師が言われているんだから間違いない。

そのことを障害というものがありのままの障害としてそのままそっとそこにあることを「未生煩悩」ともいう。なぜそういう事を言うかというと、煩悩などと言ってみても、人間が考え出して言葉を作って、レッテルに印刷して張ったまで。だから本来の我々の生活の実態と言うものを眺めていくならば、煩悩と言うふうにレッテルを張ることのできるものは何もない。ただ人間は色々とレッテルを張って問題を考える事が好きだから、我々には煩悩と言うものがあって中々それから脱け出す事が出来ません、とこういう解釈をして、「困った」、困った」と言う事で一生を送るわけです。

ただ道元禅師が言われるのは、煩悩と言うものはそこにあるだけだ。人間が煩悩と言う名前をつけたものがそこに実態としてあるだけだから、そのままほっとけばいいんじゃないかと言う事でもあるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師の述べられている仏教は非常に男性的で、積極的で「もののとらえ方」がダイナミックといいますか自分の方から働きかけていく。普通、仏教と言うと物悲しくて涙を催すようなしみじみとしたものというニュアンスがありますね。仏教は非常に能動的なものであるという事は、やはり道元禅師だけがおっしゃっているんですか。

先生
うん。釈尊以来の仏教思想とはそれですよ。で、なぜ物悲しい仏教というものがある時代非常に力を得たかというと、原因は経済的な厳しさだと思います。つまり、平安朝の末期からいわゆる封建制時代というものが確立されたわけです。封建制時代とはどういう時代かというと、土地を中心にして食糧を生産することが社会生活の一番の中心になった時代を言うわけです。その場合には、一般の農民は食うや食わずの生活で、とにかく朝早くから夜遅くまで働かざる得ないという体制の中に生きたわけです。

そういう生活の中で何が一番慰めになったかというと、生きているうちはとても望みはないけれども、死んでからはいい世界があるという慰めが唯一の慰めであったという時代が長く続いたという事、それが非常に悲観を中心にした仏教の生まれてきた原因だと思います。ですから我々は今日、恵まれた経済生活の中にいますから、そういう物悲しい時代に生きざるを得なかった人々の悲しみはわからんわけですよ。ただ当時の人々にしてみれば、朝から晩まで寝る時間もなしに働きに働いても、なお楽にならないという時代が何百年も続いているわけです。

そういう時代を生きていくための一つの慰めとして、非常に悲観を中心とした仏教思想が力を得たと、こういう事があると思います。ですからあくまでも一つの歴史的な事情だと思います。
                  つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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