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正法眼蔵 阿羅漢 2

「阿羅漢」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。

ところが道元禅師はこの解釈に反対された。仏道修行において戒律をきちっと守れる様になり阿羅漢になったという事は仏になった事と全く同じであると。だからある種の仏教徒が仏教を小乗仏教と大乗仏教とに分けて、小乗仏教で阿羅漢の境地に達した人は、必ずしも大乗仏教の立場から見て価値が完全とはいえないという主張に対して、道元禅師は阿羅漢の境地こそ仏と同じ境地だと主張された訳であります。

ですからこの「阿羅漢」の巻においては、小乗仏教の最高の境地が仏そのものだと言う主張をされているわけでありまして、その事は道元禅師が、仏教を小乗仏教と大乗仏教と二つのものに簡単に分けてしまって、大乗仏教は尊いが小乗仏教は尊くない、戒律を一所懸命追い求めている仏教徒の生き方は、本当の仏教ではないと言う理解の仕方は誤りだという主張も説かれているわけであります。

道元禅師の思想によると、釈尊の教えというのはたった一つしかない。小乗仏教だとか大乗仏教だとかと言うかたちで二つに分かれるはずがない。釈尊の説かれた教えが時代の変還に従って説く形式は変わって来たけれども、その中身はたった一つの釈尊の教えでしかないと言う主張を持っておられたというわけであります。

そういう立場から、小乗仏教というものを軽視して、阿羅漢というものに対して余り尊敬を払わない考え方と言うものを、この「正法眼蔵阿羅漢」の巻で否定しておられる事が、この巻で説こうとされている趣旨の一番中心にある問題であります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅をすれば百人百色でもって、その人その人の捉え方というものがあってしかるべきだと思います。「こうでなくてはならない」というふうなパタ-ンにはめ込むものではないと思うんですが・・・。

先生
それと同時に、坐禅の究極というものは誰でも同じです。という事は我々が「正法眼蔵」を読んでなぜ感激するかといえば、我々自身の中に「正法眼蔵」に説かれてたものと同じものがあるからですよ。我々が坐禅をした時になぜ気持ちが落ち着くかと言えば、我々の中に坐禅と同じ境地のものがあるからです。それが外に出てくるだけですから。

そうすると仏道修行というものは、誰の場合でも結局は同じものだという事が言えると思います。そうでなければ我々が道元禅師の心境がわかるはずがないし、釈尊の心境がわかるはずがない、天童如浄禅師の言われていることの意味が分かるはずがない。曲りなりにもわかるという事は、我々すべてが共通のものを持っているという事です。

特に坐禅という修行法を経験した以上、その坐禅という共通の修行法を通じて誰でもが同じものが体験できるというのが釈尊の教えだとみて間違いないです。それだけに坐禅は有り難いんです。だからそれだけに、坐禅なしに仏道があり得るかというと私は絶対にありえないと思う。だから私が、坐禅、、坐禅というのはそのためなんです。それと同時に私が嫌われるのもそのためなんです(笑)。

坐禅という事が書いてなければ仏教書は読み物としては面白い。あいつ(西嶋)の本は、坐禅、坐禅と二言目には書いてあるから読む気がしないというのが実情だと思います。ただ私は坐禅、坐禅という事を書かないと仏教を書いた事にならないと思うから、人から嫌われるようでも、坐禅、坐禅と言うし、書くし、するしかないんです。それ以外に仏道というのはないですよ。そういうふうな関係があると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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