トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 阿羅漢 1

「阿羅漢」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この阿羅漢とは何かという問題でありますが、この講義でも何回も出てきましたが、仏教の考え方の中に三乗と言う教えがあるわけであります。三乗というのは声聞と縁覚と菩薩と言う三種類の考え方であります。「乗」というのは乗り物と言う意味で三種類の乗り物。

1番目の声聞乗と言うのは何かというと、釈尊の声を聞くという意味で、釈尊の説法を聞いて仏道を勉強していくという考え方であります。2番目が縁覚乗、縁というのは外界の世界という意味、ですから外界の世界を観察する事によって仏道を勉強していく。3番目が菩薩乗、菩薩というのは普通の社会生活、日常生活を通じて仏道を勉強していくという考え方であります。

この様な三種類の考え方がいつごろ特に説かれたかと言いますと、釈尊が亡くなってから4、500年たちまして、いわゆる大乗仏教と言う教えが生まれた時に、このような三種類の仏教徒のあり方というものが特に強く説かれ始めたわけであります。大乗仏教がどうしてこの三乗と言う教えを説いたかといいますと、自分たちの仏教の勉強の仕方は菩薩乗だ、社会生活をつづけながら仏道を勉強していく立場だ。それに対して自分たちよりも前の時代に盛んであったであった仏教の勉強の仕方は声聞乗か縁覚乗である。


経典を勉強し釈尊の説法を基準にして仏道を勉強するという声聞乗の立場か、社会生活を嫌って一人山の中に入って静かに生活をすることによって仏道を勉強するという縁覚乗の立場か、この二つの立場だけれども、この二つは仏教の勉強の仕方はとしては消極的であって小さい。したがってこの二つの修行方法を大乗仏教の人たちは小乗仏教と言ったわけであります。それに対して自分たちの様に普通の社会生活をしながら仏道を勉強していく生き方をというものが釈尊の本当の教えにかなうものであって、乗り物と言う立場からするならば大きな乗り物である。したがって自分たちの仏教の事を大乗仏教と唱えた訳であります。

この様な大乗仏教の生まれた時代に、今日のいわゆる大乗経典と言われる「華厳経」であるとか「妙法蓮華経」であるとか「維摩経」であるとか、そういう経典がどんどん作られていったという事が言えるわけであります。この大乗仏教の人達がいわゆる小乗仏教の一つの流れである声聞乗の最終の段階に達した人の事を「阿羅漢」と呼んだ訳であります。阿羅漢というのは本来の意味は供養に値する人と言う意味であります。

つまり仏道修行をして仏道の最終の境地に達して、一般の人々から供養を受ける価値のある人と言う意味が阿羅漢と言う言葉の内容であります。ところがその事は小乗仏教の立場、声聞乗の立場からした場合の最高の境地を指すと大乗経典の立場からは理解した訳であります。そういう阿羅漢と言う境地の特徴としては、戒律を守って戒律に違反しなくなると言う特徴を考えた訳です。ですから「阿羅漢」というのは行いすまして戒律を破らない境地に達した人というものを意味する訳であります。
                             つづく--



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
初歩的な質問なんですが「正法眼蔵」の中には「空」と言う言葉がございますね。一般的には「空」とか「無」と言うのは・・・。

先生
今、普通に「無」とか「空」とか言われている説明の仕方と言うのは、本当のものがないと言うふうな意味が非常に強いです。たとえば鈴木大拙さんなどは「東洋的な無」と言う事を言っておられる。それから京都大学の先生で久松真一さんと言う方がいるんです。この方もやはり同じ様な意味で、何もないこと、それが「無」だとか「空」とかと言う説明をされるわけですね。また江戸時代の白隠禅師なども「隻手の音声」と言う事をしきりに言われているわけですけれども、臨済系の坐禅の悟りと言うものと「無」とか「空」とかと言うものとが非常に関係が深いという理解の仕方もされているわけです。

私が「正法眼蔵」を読んだ限りでは「無」とか「空」とかをそういう何でもないと言う意味に理解したら、理解出来ないものになってしまう。つまりもの事を考える場合に、あるいは仏教、仏道を考える場合にも我々の日常生活に即してそれが何であるかと言う事を詰めて考えないと本当の意味で我々の日常生活に活きて来ない。だから本にはああ書いてあった、こう書いてあったと言う理解の仕方ではなしに、自分自身が朝、顔を洗って、ご飯を食べたと言うふうなごく卑近な日常生活の中で「そう言うものがあるかどうか」と言う事で考えざるを得ない。

そうすると仏教思想の基本には「無」とか「空」とかと言うふうなものを乗り越えて、現実の世界と言うもの、日常生活というものが基準にあるのだと。そういう現実の世界を基準にして「無」とか「空」とかと言うものを考えていくと、「ない」と言う事ではなくて、我々の見方をちょっと変えると「そんなものは何でも無いんだ」と言う超越した見方も出来るわけです。それが「空」の立場「無」の立場だと、そういう理解の仕方をするわけです。


いつも読んで下さってありがとうございます。 よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-