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正法眼蔵 観音 27

「観音」の巻について道元禅師のあとがきは続きます。

雲門禅師は、眼で見えるものを見る事によって釈尊の心境とはどう言うものかという事を知る事ができるし、外界の様々の音を聞く事によって真実とは何かと言う事がわかる、という形での観世音菩薩に関する説明がある。

この様な説明からもわかる様に、我々が生きるこの世の中で、耳に聞こえて来る音や眼に見える姿や形というものが、我々が見たり聞いたりする観世音菩薩そのものの声であり姿であるとどうして言えないことがあろう。我々が日常生活で耳にするもの、目にするもの、それら全てが観世音菩薩の働きであり生命の働きである。

それから、百丈禅師は観世音菩薩の教えを契機にして真実の世界に入ると言う主張が伝えられている。また。「楞厳経」で説かれた仏教集会においては、円通観音として観世音菩薩が説かれている。また「法華経」では、この世の中のあらゆる場面に現れる観世音菩薩が説かれている。

この様な観世音菩薩の現れ方と言うものは、いずれも真実を得られた方々と同じ様な境地で現れて来るのであり、真実そのものと同じ様な境地に住んでいるという事が観世音菩薩の実態である。我々を取り巻いている山や川や大地と観世音菩薩とは全く同じ境地のものであると言える。

その様な状況から言える事は仏教経典の中に沢山の観世音菩薩が現れてくるけれども、これらの沢山の観世音菩薩もこの雲巖禅師と道吾禅師が説かれた「観世音菩薩が非常に沢山の手を持ち、眼を持って、我々の日常生活において広範囲の働きをされている」と言う説明における1つ2つの例と言う事が出来るであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―    

    --つづき

先生
だからそういう点では、この雲巖禅師と道吾禅師の問答の内容は非常に深い意味を持っているという事が言えると思います。というのは道元禅師もこの雲巖禅師も、道吾禅師も滅多なことではごまかされない方だった。

これは正直というか、厳密というか、何となく「ああ、そうですか、わかりました」という形ではなしに「これはどうですか、これはどうですか、おかしいじゃないですか」というふうな性格の方だったという事が言えるわけ。仏道というのはそういう性格の人が求めるもの。

「あ、わかりました。もう結構です」という事であれば仏道というのは必要がないかもしれない。ところが「いや、どうも納得いきません。どうもおかしいじゃないですか」というものの考え方をする人が、やっと納得できる思想というのが仏教。道元禅師もこの雲巖禅師と道吾禅師の問答を読まれたときに「ああ、この説明が観世音菩薩の説明としては最高だな」という感じを持たれ、「観音」の巻を書かれたとみていいと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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