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正法眼蔵 観音 24

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

二人の問答の中で、観世音菩薩はたくさんの手や眼を使って何をされようとしているのか、と言う言葉が出てきたけれども、さらに我々自身の日常生活に関連して言うならば、せっかく人間に生まれて、人間としての体を持ち、人間としての心を持ち、極めて優れた働きができる可能性を持っているのであるから、その様な体をもとにして、その様な心をもとにして一体何をしようとするのかという質問にもなるであろう。

雲巖禅師が「観世音菩薩の体全体が人を助けたい、人を救いたいと言う手であり眼である」とが言われ、道吾禅師が「人を助けたいと言う手や人を助けたいと言う眼が、体全体に行き渡っている」と言われたけれども、二人の方々はそれぞれ自分自身の立場をはっきりと掴まれた上で、体全体と言う言葉を使い、行きわたっているという言葉を使われたのであるから、どちらの言葉が真実を言い尽くしており、どちらの言葉がまだ真実を言い尽くしていないと比較して言うべきではない。

雲巖禅師と道吾禅師との言葉を比較してどちらが優れていると批評すべきものではないけれども、雲巖禅師に言わせるならば、観世音菩薩が持っている沢山の手や沢山の眼を使ってされる働きというもを「観世音菩薩の体全体が人を助けたい、人を救いたいと言う手であり眼である」と言われたのであるし、道吾禅師に言わせるならば、「観世音菩薩の持っておられる沢山の手や眼による霊妙な働きというものが体全体に行き渡っている」と言い表わされたまでである。



              ―西嶋先生の話―    
    --つづき

戒律が道元禅師の思想の中でどういう意味を持っていたかと言いますと、道元禅師は戒律を守ることを仏道修行の目的にすべきではないと、こういう思想は持っておられたという事が言えるわけであります。戒律を頭において何でもかんでも守るんだ。戒律さえ守っておれば仏道修行は全部終わりなんだという考え方が仏教の一部にはあるわけでありますが、道元禅師は戒律に対してそういう考え方をすべきではないと考えられておられた。

その点では戒律をどう考えていったらいいかというと、仏教徒の生活における一番外側の枠だ。だから例えば牧場の例で考えて見ますと、牧場には大きな外側の枠があるわけであります。牛や馬はその枠の中では自由自在に遊んでよろしい。ただ枠から飛び出すと危険があるかもしれない。だから枠から飛び出さないようにという一番外側の枠が戒律だと考えてよかろうと思うわけであります。

そういう点では戒律があるとないとでは大いに違うわけで、牧場に外枠がないと馬も牛も外へ行ってしまう。危険な場所へ行っても危険があるという事に気が付かない。だから馬や牛を危険から守るために外側に大きな枠を設けておかなければならん。そういう意味で仏教の戒律もあるとみていいと思います。

それから道元禅師は戒律を受けてから破った場合にはどういう考え方をしなければならないかという事について、戒律を受けてから破った場合でも、それでもう致命的な欠点が生まれるというようなことは決してないと。戒律に対する考え方についてはかなり弾力的な考え方をしておられた。それと同時に仏教徒の生活の外側の意味で戒律を受けるという事を道元禅師は非常に大切な事として「正法眼蔵」の中でも、「受戒」という巻を設けて説かれておるというのが実情であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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