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正法眼蔵 観音 18

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

観世音菩薩が体全体に行き渡って手となり眼となって働いているだけではない。生きとし生けるものを救うために釈尊の教えを説く事も、まさに観世音菩薩の働きとしてあり得るであろう。また我々の住んでいる大地が非常に素晴しい世界として光を放つと言う状態も観世音菩薩の働きと考える事が出来るであろう。

雲巖曇禅師が言われた言葉においては、体全体が観世音菩薩の手であり眼であると言われたのであろう。手や眼が具体的な体全体になっているという理解をすべきではない。このような形で雲巖曇禅師が使われた言葉「体全体が観世音菩薩の手であり眼である」と言う言葉を使う事はもちろん結構であり、自分の行い全部が観世音菩薩の手であり眼であるという実体として日常生活を送る事も勿論あるけれども、その様な貴重な自分の体、あるいは自分の行動を動揺させ惑わせる事があってはならない。




              ―西嶋先生の話― 

仏教は本来が実行を中心にした思想ですから、戒律をかなり重要視すると言う性格があります。戒律を重要視する事は、釈尊が今から約2500年前に仏教教団を結成させてから以降ずっと続いている仕来りであります。仏教徒になった一つのケジメをつけるために師匠から戒律を受けます。十重禁戒においては具体的にやってはならない事を一つ一つ決めていきました。十重禁戒とは、1不殺生戒 2不偸盗戒 3不貪婬戒 4不妄語戒 5不酤酒戒 6不説在家出家菩薩罪過戒 7不自賛毀他戒 8不慳法財戒 9不瞋恚戒 10不謗三宝戒。

1・不殺生戒 (生きているものを殺してはならない)
この戒律を文字通りに実行しようとするならば、人間が生きていけないと言う問題がある訳であります。単に生き物というものを四足とか魚とかと言うものに限定すればともかく、仏教の考え方というのは生命というものがこの世の一切の中に内在していると言う考え方でありますから、植物にしても生命を持っていると言う考え方を仏教では採るわけであります。

そして他の生き物を殺して生きていくというのが人間の宿命であると考えてまいりますと、不殺生戒と言う戒律も単に動物を殺さなければいいと言うだけの戒律ではなくて、むしろ役にたたない無駄な殺生をしてはならないと言う意味になると思います。我々はこの世に生きている以上、他の生き物を殺してしか生きていく事が出来ないけれども、そういう必要不可欠な殺生以外の殺生をしてはならないと言う意味に解さざるを得ないい、そう言うふうに考えられる訳であります。
                            
2・不偸盗戒 (盗みをしてはならない)  
我々は所有と言う観念を持っている。人のもの、自分のものと言う考え方をも持っているわけであります。ですから、人のものを理由もなくして自分のものにしてはいけないという戒律です。                           
                               つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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