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正法眼蔵 観音 16

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

この世の中の一切のものが、それぞれ本来あるべき場所に自分自身を置いて、少しも矛盾がない、誤ったところがないというのが我々の住んでいる世界の実情である。観世音菩薩の眼も観世音菩薩の手もそれぞれあるべき場所に自分自身をおいて少しも矛盾がないと言う状態を示している。

これらの表現に当たって「理解する」という言葉を使ったけれども、その「理解する」という言葉の意味は、現実のこの世界における理解の意味なのか、この現実の世界とは別の意味での理解という意味なのか。「自分はわかった」と言う言葉の中に含まれている理解は、自分がわかったという意味であるけれども、「貴方はどう理解しますか」と言う言葉では、単に「自分がわかった、自分でわかった」と言う事ではなしに「自分以外の貴方はどうでしょうか」と言う質問をしている事を十分に考えて見なければならない。

雲巖禅師が「体全体が観世音菩薩の手であり眼である」と言われた。これは夜手を背中に回して枕を手探りで見つけるという言葉を説明するに当たって言われた言葉である。この言葉を体全体が観世音菩薩の手であり眼であると言う意味だけに理解したならば、この様な観世音菩薩の理解の仕方と言うものはまだ真実を十分に解き尽くしていないところの観世音菩薩である。確かに観世音菩薩の一つの説明ではあるけれども、その説明の仕方はまだ不十分である。



              ―西嶋先生の話―

坐禅を毎日をやるという事が各人の一生にとって非常に大切な事。坐禅を毎日やる習慣がついたら坐禅から離れられない。そこまで行けば仏道修行は完成とみていい。毎日やれるというところに行くまでが仏道修行の一番苦しいところで、習慣さえつけばもう万々歳。あとは坐禅を続けていく事によって「人生をどう生きなければならないか」という事は坐禅が教えてくれる。

偉い師匠がいて教えてくれると言う事よりも、坐禅をする生活を通して自分自身がどうしなければならないかと言う事が本能的にわかる、直観的にわかる。そういう結果と言うものは人間が頭の中で考えた智慧とは違う。人間が頭で考えて、いろんな智慧を発揮し「こうしたらよかろう、ああしたらよかろう」と言うふうに考えてみても、大抵の場合が浅智慧で現実の生活にピッタリするかどうかわからない。

あの本を読んでためになった、この本を読んでためになったと言う事で全然知識がないよりはためになるけれども、一方的な考え方というのはプラスもあればマイナスもある。ブラスに作用すると言う事が場合が変われば、マイナスに作用すると言う知識はいくらでもある。この我々の住んでいる世界、現実の世界と言うものは簡単な様で難しい。理屈で割り切れるようで、なかなか理屈では割り切れないものがある。そうすると、この現実を支配している秩序そのものを身に付けると言う事が非常に大切な事になってくる、とそう言うふうに考えざるを得ない。そう言う事が仏道と言うものの基本になる訳です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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