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正法眼蔵 観音 15

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

雲巖禅師の「わかった、わかった」と言う言葉は、道悟禅師の言われた事に対して「わかった、わかった」と言っているのではない。言葉では表現出来ない何かのために観世音菩薩の手が動き眼が動くと言う事情を真実の立場から述べ様とするならば「わかった、わかった」と言う表現になるのであって、その実情というものが自分の体験としてしっかりわかっていると言う事を言われたのである。その内容は雲巖禅師が現在の瞬間において、生き生きと生きておられる実情そのものを述べているのである。

道吾禅師が「貴方は観世音菩薩をどのように理解していますか」と言われたけれども、その言葉の意味は質問の形式ではあるけれども、やはり同じように自分もその境地がわかっておりますという事を伝える意味で、「貴方はどのように理解しもますか」という質問をしたのである。この言葉もまた「私もわかっております」と言う内容を持っている。この様に道悟禅師の言葉の中には「自分もわかりました」と言う意味が含まれている。

その事を否定する訳ではないけれども、道吾禅師にはやはり「貴方はどの様に理解しますか」と言う言葉が具体的にあったということも事実である。ただ「貴方はどの様に理解しますか」と言う言葉の意味は、自分も分かっております、貴方も分かっておりますという意味である。観自在菩薩の眼もそのまま自分の本質を理解しているし、観世音菩薩の手もそのまま自分自身の持っている意味を理解しているという事がどうしてないであるうか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
現在の日本の葬式は、本来の仏教からするとあまり関係ないものなんですか。

先生
ええ、私はそう思います。人間社会と言うのがありますと、死者が出た場合にかならず何らかの儀式をすると言うのは何処の国にも共通してありますよね。だから、それがたまたま日本の場合、仏教と結びついている訳であリます。葬式が仏教と特に結びつくべきものだと言う事ではない。それと同時に死者が出た場合に何らかの儀式をしなければ収まらないと言うのも事実ですよね。
 
質問
法名とか戒名とかと言う、あれはどういう意味があるのでしょうか。本名と違うと功徳が違がうのではないか、なんていう人があるんですね。それを考えなくてはいけないんでしょうか。

先生
私は打ち割った正直なことをいえば、あれはやっぱりお寺さんの営業政策だと思いますね。つまり戒名をつける事による労働力はきわめて僅かなんです。そうして報酬は滅法高いんですよ。紙切れにサラサラと字を何字か書くだけで、何十万と言う収入を得られる経済行為と言うのは、非常に少ないと思いますよ。こういう時代にあって。

まあそう言う事を別にして、徳川時代からあった事ですからもっとそれ以前からあった事なんでしょうから、非常に長い歴史の中で培われて来た事ではあると思うんですよね。だけれども宗教としての仏教とどれだけの関係があるかと言うと、あんまり関係ないと言うふうに見ていいんだと思います。ただ、人が亡くなった時に「迷ってもらっちゃ困る、なるべくいいところへ行って貰いたい」と思ってる矢先、お寺さんに「このくらいの名前をつけなきゃ駄目だよ」と言われれば、やっぱり「いや、お金が惜しいからやめときます」と言うわけにはいかんと言う人情はありますよね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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