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正法眼蔵 観音 13

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

もしこの様な形で観世音菩薩の手や眼の具体的な現れ方を検討していくならば、沢山の手や眼を使うという事がたとえあったとしても、誰がこれを観世音菩薩と呼ぶ必要があろう。さらに突き詰めて考えていくならば、観世音菩薩と一体になった手や眼が沢山の観世音菩薩を使って様々な働きをされているけれども、一体それによって何をしているのでしょうかと言う質問も成り立つ。

※西嶋先生解説
従来から観世音菩薩という慈悲心に満ちた菩薩がいると伝えられているけれども、もっと観世音菩薩の本質に立ち返って考えるならば、生命の力が手となり眼となってこの世の中で活動しているという事実があるだけだから、今度は逆にそのような手や眼が沢山の観世音菩薩を使って何かをしているという説明の仕方もできる。

本文に戻ります。
銘記せよ。この様に考えてくるならば、観世音菩薩と言う人格よりもさらに具体的には、生命の働きを現す手があり眼がありそれぞれ活動しているという事が言えるのであって、その様な働きが一体何をしようとしているのかと言う質問に関しては、これこのとおり役に立っております、この様な形で例の言葉では表せない何かを使っておりますと言う説明にならざるを得ない。



              ―西嶋先生の話―

今日では坐禅は非常に衰退している。だから坐禅をするのは変わり者だと思われている。ただ人間と言うのは、時々人間の基本に立ち帰らないと人間の状態から外れてしまう場合が割合多い。普通は人間の状態から外れてしまって、自分たちは神様ではないんだからこの程度はしょうがないと思って苦労しながら日常生活を生きている場合が多い。

ただ人間は人間らしくあると言う事、これが人間として幸福に生きるための最低限の条件だという事は言える。魚が魚らしく泳いでいる、鳥が鳥らしく飛んでいるのと同じ様に、人間は人間らしく生きなくてはならんと言う事がある訳であります。坐禅はそういうためにあるもの。

我々がいくら気持ちが焦って、人間らしく生きたいと思ったところでどうにもならない。そんな事は絶対に達成できない。だから逆に体の状態から坐禅と言う形で人間らしい状態に我が身を置いて、それを基準に生きていく事によって初めて人間らしい生活ができる様になると言う事に過ぎない。そう言う事が言えると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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