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正法眼蔵 観音 11

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで夜というものに関連しても、我々はすぐ観念的に問題を考えやすい。夜と言うと昼間でない時とすぐに考えるけれども、頭の中で昼に対比して夜を考えるのではなくて、実際に暗闇の中で手探りでものを見つける様な現実の体験を通して、夜がどういうものかという事を勉強すべきである。我々は普通は常識的には日が照ってる時が昼間で、日の照らない時が夜だと頭の中で理解しているが、昼とか夜と言うものを時間として実態として勉強してみる必要がある。

夜と言うのは独自の時間の状態としてあり、昼間の反対として夜があると言う事だけではないと言う観点から細かく検討すべきである。この様な道吾禅師の説明というもの、つまり人が外れた枕を手探りで見つけるような無意識のうちの生命の動きが観世音菩薩の働きだという説明に対して、観世音菩薩の働きはその様な卑近な粗末のものではない、もっと崇高なものだと理解する向きもあるかもしれないけれども、実際には道吾禅師の言う事は否定しようとしても否定し切れるものではない。、

ここに言う「人が・・・する様なものだ」と言う場合の人と言う言葉は、仮に例として出されてきた意味のものであろうか。またここで例としてごく普通の人と言う形で取り上げているけれども、実は無意識のうちの生命の働きというものだけで動いている、普通の人とは異なった状態の人と考えるべきなのであろうか。

そしてごく普通の人とは、釈尊の教えにおける普通の人であって、仮に例としてだけ取り上げられたものではないと考えて来るならば、外れた枕を手さぐりで見つけるという本能的な無意識の行いのうちに、勉強してみる価値のある内容が隠されているという事に気がつく。そしてこの例の中で取り上げられている枕を一つ取ってみても様々に検討して見る内容を具えている。夜と言う言葉も普通に使われている意味での夜という意味だけではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―            

質問
坐禅を組んでいる時は「無でなきゃいけない」とよく言いますね。

先生
そう言う事じゃないんです。坐禅をしている時にいろんな考え方が出てくるんです。これが普通の人間のあり方なんです。考えようとして出てくる考え方ではなしに、考えまいとしていて出て来る考え方はそれぞれの人にとって、心の奥に押さえつけられていたものが外へ出て来るんです。だから、そういうものがすべて外に出てしまうと気持ちが楽になって、この世の中が楽しくなると、こう言う事なんです。

坐禅の時にいろんな悩みが出て来る、いつの間にか気が付かないうちに考えていたなんて言う事は誰にでもあるんです。その事を決して気にする必要はないんです。そう言う状況がどんどん、どんどん続いていくと、心の中に押さえつけられていたものがどんどん、どんどん外に出て行ってしまう。そうして本来の自分というものがそこに出て来る。そう言うのが坐禅というものの意味です。だからいろんな考え方が出て来るという事は気にする必要がない。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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