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正法眼蔵 観音 10

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

雲巖禅師が道吾禅師に対して「観世音菩薩は沢山の手や眼を使って一体何をしようとされるのか」という質問をした。この質問は観世音菩薩に対する信仰の本質は何かという事を問いかけているのである。それに対して道吾禅師が「人間が夜中眠っている時に、枕が外れると無意識に手を背中に回して枕を探すのと同じ様な本能的な動作である」と言った。

この道吾禅師がいわれている言葉の意味は、たとえて言うならば人が夜中に手を後ろに回してはずれた枕を一所懸命手探りで見つけている様な状態が観世音菩薩の状態である。つまり無意識の中で働く生命の働きと言うものが観世音菩薩の実態だという理解の仕方をされている。ここで模索という中国の言葉が使われているけれども、これは日本語で言うならば探り求める言う意味である。

夜間と言うのは別の言葉で言うならば、一日のうちで暗い間の時間というものを言っているのである。太陽が出ている時には山が見える、太陽が隠れている時には何も見えない。そう言う何も見えない時間を夜と言っているのである。観世音菩薩が手や眼を使ってどのようなことをされるかと言うならば、人が夜手を背にして枕を手探りで見つけるのと同じように、観世音菩薩の動きというものは生命そのものであって、無意識のうちに無限の働きを現わされるという事が言える。

このような道吾禅師の言葉を頭において、観世音菩薩の手の働き、目の働きというものを学ぶべきである。



             ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
観音を念ずればご利益があるという、そういう点については道元禅師は説明されていないのですか。

先生
観音経を念ずるという事はどういう事かと言うとレ-ルに戻るという事ですよ。だから車の例について言えば、車は舗装した道路があると非常に便利なんですね。舗装してない道路を高速で突っ走ろうと思うと、あっちへぶつかり、こっちへぶつかり危なくて仕様がないと言う問題があるわけであります。

我々の人生というのも、軌道に乗った時にはスム-ズに走ると言う問題がある。だから観世音菩薩の力を念ずると言うのは、観世音菩薩を念ずる事によって舗装された道路に戻るという事です。舗装されていない道路で「わぁ-苦しい、わぁ-苦しい」と言ってみたところで、世の中間違っていると言ってわめいて見たところでどうにもならない。だから観世音菩薩を念ずるという事は、自分の本来の状態に戻るという事でもある。そういう状態に戻った場合には、生命の働きと言うものがすぐに人間を救ってくれるとそういう理解で間違いないと思います。

質問
要するに坐禅をしていればいいという事ですか。姿勢を正して・・・。素直になって・・・。

先生
うん、まあそういう事ですね。

質問
他の言葉で言うならば「門をたたけば開かれる」という事に通じましょうね。

先生
うん、それもありますね。

質問
あるいは祈ればかなうという・・・。

先生
ただね、祈るという事とちょっと違うんですよ。つまり頭の中で考えているよりはただ一所懸命に動き出せという教えでもあるわけです。だから祈るという事とちょっと立場が違うと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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