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正法眼蔵 観音 9

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

雲巖禅師が道吾禅師に対して「沢山の手や眼を使って一体何をしようとされるのか」と言う質問そのものが、すでに真実を説いている言葉である。 また観世音菩薩の持っている手や眼が一体どういうものかと言う事をすでに説いている言葉である。 質問だけではなくて、それと同時に雲巖禅師の主張が込められている。

雲巖禅師が「観世音菩薩は沢山の手や眼を使って一体何をされようとしているのか」と言う質問をされた事により、雲巖禅師が示された言葉の持っている内容を力として、仏(真実を得た人)になるという事を実現された人々が過去にもあったであろうし、また現在でもあるであろう。

ここで雲巖禅師は「観世音菩薩は沢山の手や眼を用いて何をされようとしているのか」と言う質問をされているけれども 、「用いる」という言葉は「使う」という言葉に置き換えて述べても差し支えない。何をするかというふうにも表現できるし、何を動かすのかというふうに言う事もできるし、何を言おうとされているのかという表現でも差し支えない。



             ―西嶋先生の話―    

    --つづき

たとえば非常に腹が立ってどうにも気持ちが落ち着かない。ただ、ひょっと思い直して坐禅をやってしばらく経つと、なんで腹を立てたのかよくわからないほど腹立ちがどっかへ行ってしまう。それはなぜかというと、腹を立てるというのも我々の体の状態であるわけであります。顔を真っ赤にして腹を立てる人もあるし、顔を真っ青にして腹を立てる人もあるわけでありますが、腹立ちというものは単に気持ちの上だけの問題ではない。体の状態が変化しているという事があるわけであります。

ですから、思い直して、足を組み、手を組み、背骨を伸ばし坐ってみると、腹を立てた状態がどっかい行ってしまう。そのことは腹を立てている状態から別の状態に自分の体が、したがって自分の心が変わってしまったという事でしかないわけであります。だからそういう点では、坐禅をしている時には、貪りとか、腹立ちとか、愚痴とか、そういう3つのものから離れた状態にある。そういう状態に我が身が置かれている時に感じられるものが「法悦」と言うものであります。 

したがって非常に地味なもの、気がつくか気がつかないかよくわからない様な喜びでありますけれども、こういう喜びが人生における本当の喜びだという事があるわけであります。結局は人生と言ってみても、毎日をいかに過ごすかと言う問題でしかない。そうすると、あんまり不満を待たないで、腹を立てないで、愚痴を言わないで、せっせせっせと毎日やらなければならない事をやっているという事が人生の喜び。それが一番本質的な人生の喜びであります。その事を「法悦」と言うと見て間違いないと思います。
 
ですからその点で、仏道修行に喜びがあるかと言えば、まさに喜びがある。ただそれは非常に地味なもの、平凡なものでしかないと言う事があるかと思います。その点では法の喜びというものが途轍もなく、普段は感じられない様なものだという事は決してない。そしてこういう考え方は、仏教と言う思想を理解する為には、わりあい大事な問題だという事が言えると思います。


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コメント
621:せっせせっせ。 by せっせせっせ on 2018/01/29 at 23:28:23

「不満を持たず、腹を立てず、愚痴を言わず、
毎日やらなければならないことを、
せっせせっせとやっていることが、
人生の一番本質的な喜び」
本当にそうですね。
そのせっせせっせと集中してやれることのあることも人生の喜びですね。
この状態を「法悦」と言うのですね。
今日もせっせせっせ。
明日もせっせせっせ。
毎日せっせせっせ、で過ごしたいです。

622:Re: せっせせっせ。 by 幽村芳春 on 2018/01/30 at 11:19:38

せっせせっせさん、コメントありがとうございます。

坐禅を毎日する習慣がつくと否が応でも、今日もせっせせっせ、明日もせっせせっせ。毎日がせっせせっせになりますよね。
毎日寒い日が続きます、ご自愛ください。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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