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正法眼蔵 観音 8

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

雲巖禅師と道吾禅師とはかつて薬山禅師に師事して、互いに力量を磨き合って以来すでに40年の長きにわたって仏道修行を共にし、昔から伝わっている仏教関係の様々な説話について、妥当でない箇所はこれを排除し、妥当な箇所はその正しさを実証して来た。ここにおいては観世音菩薩に関連して無数の手と眼という事を話題にしたのであるけれども、その際、雲巖禅師が一つの主張をし道後禅師がその正しさを保証された。

銘記せよ。この観世音菩薩が持っておられる沢山の手や眼という言葉がお二人の口から論議の対象として唱えられた以上、この観世音菩薩が持っておられるこの沢山の手や眼という言葉が、まさに仏道の真実を語る言葉だと考えてよい。この沢山の手や眼という観世音菩薩を表わす言葉というものは、疑いもなく雲巖禅師と道吾禅師が同じように勉強されたところの言葉である。

この二人の問答の中では「観世音菩薩が沢山の手や眼を使って一体何をしようとされるのか」と雲巖禅師が道吾禅師に質問したのである。 この質問を経典や論議のみを中心に仏道を教えようとする師匠や十聖・三賢と言う 様な菩薩の境涯にある人々の質問と同じ様な意味で考えてはならない。




             ―西嶋先生の話―                           

先日○○さんから「仏道修行、あるいは坐禅というものについて喜びというものがあるか」という質問があったわけです。私は「喜びというものがある」という返事をしたわけであります。なぜそういう返事をしたかというと、昔から仏教には法悦というものがある。これは仏道修行の喜びという意味です。法悦というのは地道な喜び。それは我々が日常生活において「生きていてよかったな」という感じを持つような状態と同じだと言ってもいいと思います。

そういう点では、気違いじみた喜びではない。ところがだいぶ前の事になりますが、日曜の朝の宗教の時間というのを見ておりましたら、ある出家の方が「ある僧侶は悟った時の嬉しさのあまり、一晩中池の周りをぐるぐる歩いていた」という話をしておられたのを聞いたわけです。まあそういう事も、あったと言われるんだから、おそらくあったんだろうと思うわけでありますが、そういう喜びは仏道と関係がないということ、これは仏教という思想を理解する上においてはかなり大事な問題だと思います。

なぜかと言いますと、たとえば「正法眼蔵」の弁道話という巻の中では、道元禅師が坐禅をする事と別の悟りというものがあるという主張は仏教思想ではないという事を言っておられるからであります。ですから坐禅をすることによって特別の喜びが得られる、坐禅をすることと別に得られるという事は仏教と無関係だという事が言えるわけであります。

じゃ坐禅をしている時の喜びというのは何かという事になるわけでありますが、例えば坐禅をしている時には3つの状態から離れる事ができるという事があろうと思います。3つの事柄というのは何かというと、1つは貪り(むさぼり)、1つは腹立ち、1つは愚痴、その3つのものから離れている事ができると、こういうことがあるわけであります。

                       つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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