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正法眼蔵 観音 6

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

雲巖禅師以外の方々の観世音菩薩の説き方は、観世音菩薩には12の顔が具わっていると言う説明が行われるだけである。雲巖禅師は決して十二面観音と言う形で観世音菩薩を説明していない。また雲巌禅師以外の方々は、わずかに1000の手、1000の眼と観世音菩薩を説明しておられる。しかしながら雲巖禅師の説かれた観世音菩薩は、わずかに1000の手、わずかに1000の眼と言う少ない手や眼を持った観世音菩薩ではない。

また、さらに雲巖禅師以外の流派の人々が観世音菩薩の手や眼の数が多いと言っても、精々84000の手84000の眼と言う表現をしてみたところで、無限という数に比較するならば84000という数も決して多い数ではない。しかしながら雲巖禅師の説かれた観世音菩薩は我々の住んでいる世界のあらゆる場面に存在し、あらゆる場面で救って下さるところの生命の働きそのものである。

どの様な理由から、雲巖禅師とその他の人々が説かれた観世音菩薩との間に違いがあるかという事を検討してみると、雲巖禅師が観世音菩薩に関連して「観世音菩薩は許多の手眼を用いる」と言われているけれども、その許多という言葉は84000と言う限定された数ではなしに、無限の数を許多と言う言葉で表しておられるのである。



         ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「唯我独尊」だという事で、やりたいことをやってればいいじゃないかというふうになると、軌道から外れてしまう・・・。

先生
唯我独尊というのは自分勝手なことを何をやってもいいんだという意味ではないんです。つまり何のたれ兵衛という人は宇宙の中に一人しかいないという事でしかないわけです。だから○○さんもこの世の中にたった一人しかいない。アメリカにも一人いますとかフランスにも一人いますというわけにはいかない。月の世界にもう一人いますとか木星の世界にもう一人いますというわけにはいかない。日本の国の台東区のこの場所にしかいない、現在は。そういう意味なんです。

そういう意味からすると、単に釈尊だけではなしにあらゆる人が唯我独尊なんです。ただ、普通、唯我独尊だ、自分はこの宇宙の中にたった一人しかいないというふうに中々人は感じないわけですよ。大抵は自分の事を”その他大勢”だと思っている。「”その他大勢”だから、まあこのくらいの事をやってもいいだろう」とか「”その他大勢”だからまあ怠けてもいいだろう」とか「ちょっと人のものをごまかしたって、まあ”その他大勢”だからそう文句を言われない」とかね。

ただ釈尊が言われたのは、誰でも”その他大勢”ではない。宇宙の中にたった一人だと、そういうことを言われたわけですね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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