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正法眼蔵 観音 5

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

仏教の宗派の中では、観世音菩薩を大切にしてそれを一所懸命に勉強している宗派もあれば、観世音菩薩の存在をまだ夢にさえ見た事もない様な宗派もある。しかしながら雲巖禅師はハッキリと観世音菩薩に対する論議をしていたし、その問題について道吾禅師と同じように参究しておられる。

この二人の問答を拝見した限りでは、たった1人、2人と言う少数の観世音菩薩について論議しているだけではなしに、100、1000と言う多数の観世音菩薩について雲巖禅師が検討を加え、100、1000と言う観世音菩薩と同じ境地に雲巖禅師ご自身が参じておられ観世音菩薩と同じ境地を実際に経験している。

※西嶋先生解説
ここで言っていることは、観世音菩薩という一人の人がおられて、その一人の方が人間が苦しんでいる時に現れて救ってくださるという考え方ではなくて、1人、2人という数の少ない人格が観世音菩薩ではなくて、100,1000というふうに無数にこの世に存在する何らかの働きというものが観世音菩薩の実態だというふうに雲巖禅師は理解しておられる。

本文に戻ります。
この様な理解の仕方をして、観世音菩薩の持っている本当の意味を十分に解された方々と言うのは、雲巖禅師が指導しておられた教団においてのみである。その理由は何かと言うと、雲巖禅師の場合には観世音菩薩の実態と言うものを十分に言い尽くしているけれども、それ以外の方々の説明では十分に行われていない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
自分が死ぬまでの間に、こうして坐禅の修行が出来たという事は私本当にありがたいのですが・・・。

先生
うん、うん。その通りだと思いますよ。だからね、理論を勉強する事は苦しみを重ねるんです。一所懸命、宗教問題を理屈だけで勉強していると苦しくて苦しくてしょうがない。ますます自分の行動の動きが取れなくなるという事情があると思います。で、そういう苦しさを何によって開放する事ができるかと言うと行いなんです。実行なんです。

だから、坐禅というものにはそういう意味があって、坐禅がなぜ救いになるかと言えばそれは理屈ではない行いだからです。その中身というものを「心身脱落」と言われている。つまり心が脱け落ちるという事は、理屈がいらなくなる事。体が脱け落ちるということは、様々な体の間違った習慣から開放されると言う事でしかないわけ。

そういう開放された状態は行いによって得られる。そういう意味で、坐禅が仏教思想の中でかなり大きな意味を持っている、そう言う事になると思います。だから、仏教と言えども坐禅がなければ救いにならないと言えると思います。理屈がわかってきても人間は救済されないんですよ。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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