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正法眼蔵 観音 4

雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答について道元禅師が注釈されます。

観世音菩薩について時代の前後に従ってたくさんの人々が論議しており、たくさんの例が我々の耳に響いてくるけれども、雲巖禅師と道吾禅師の問答に勝る論議と言うものは見当たらない。観世音菩薩について勉強してみたいと思うならば、今ここに述べた雲巖禅師と道吾禅師との間で行われた問答を勉強してみるべきである。

観世音菩薩は仏教経典の訳された時代によっては、観自在菩薩と呼ばれる場合もある。観世音菩薩は仏教界において真実を得られた沢山の方々を生み出した父であり母であるとも言われている。観世音菩薩が沢山の真実を得られた方々、つまり諸仏の方々よりもまだ真実を述べる点では未熟だと学んではならない。観世音菩薩は菩薩と言う名がついているけれども、真実を得られた方々の父であり母であると言う立場であり、過去においては「正法明如来」と言うすでに真実を得た方としての地位を持っておられた方である。


観世音菩薩を学ぶに当たっては、雲巌禅師が言われた「この観世音菩薩はたくさんの手や眼を持っておられると言われているけれども、そのたくさんの手や眼で一体何をなさろうとしているのであろうか」と言う言葉を取り上げてこの観世音菩薩の意味を勉強してみるべきである。この様な理解をして、観世音菩薩の持っている本当の意味を理解された方々と言うのは雲巖禅師が指導しておられた教団においてのみである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は究極的には今はっきり申しますと、毎日の人間関係の中で坐禅をやっていることも多分大きなウエイトがあると思いますけど、一匹狼でいられるんですよね。だから集団の中に埋没して、人と一緒にやらなきゃ不安だという気持ちはさらさらないわけですね。そうすることすら煩わしい。私は偏ってしまって、ことに(そういうことは嫌い)という感じになってしまったんですね。

だから人といれば楽しいし、そこじゃ意気投合した話もできますけれども、あえてそうしなくちゃ日常淋しくていられないという事もさらさらなくて、一人でもって自由にのびのびとしていられる事の醍醐味を味わっているというか、とても幸せなんですよね。考えてみますと、それはみんな坐禅から来ているんだって実感しますんですね。そうするとだんだん少し世の中と離れていくような、そんな感じ。嫌じゃないんですよ。ちっとも嫌じゃないんですよ。とても平和でいいんですけどね。

先生
そう。だからやっぱり仏教の境地の中には、「天上天下唯我独尊」という境地ありますよ。ただそのことは、人と一緒に住まわないということじゃなくて、人の中で揉まれていても、「天上天下唯我独尊」という境地が同時にあるという事ですね。だから人と離れる、人と喧嘩をするという事が仏道ではなくて、沢山の人々の中に混ざって喧嘩はしないけれども、自分の境地を持っているという事になると思います。それが仏道だと思います。

だからその点では、人里離れて孤独で暮らしていれば楽かもしれないけれども、仏教はそういう主張ではないんです。世間の真っ只中で泥まみれになって生きていても、自分自身の境地がはっきりあるという事が仏道の主張だとみていいと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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