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正法眼蔵 観音 3

観音の巻、本文に入ります。

観世音菩薩についてどう理解したらいいか、雲巖曇晟禅師と道吾円智禅師の問答です。

雲巖禅師が道吾禅師に質問した:観世音菩薩はたくさんの手や眼を持っていると言われているけれども、そのたくさんの手や眼で一体何をなさろうとしているのであろうか。道吾禅師言う:人間が夜中に眠っている時に、枕が外れると無意識に手を背中に回して枕を探すのと同じ様な無意識のうちに動くところの生命力というものが観世音菩薩だと理解する事ができる。雲巖禅師言う:解った。解った。

道吾禅師問う
:貴方はいったい観世音菩薩をどんなふうに理解しているか。雲巖禅師言う:観世音菩薩の体全体が人を助けたい、人を救いたいと言う手であり眼であると自分は理解している。道吾禅師言う:貴方はだいぶまともな事を言っている。点数をつけるならば80点か90点だと思われる。雲巖禅師言う:自分としてはもうこれくらいの返事が精一杯だ。貴方は一体どういうふうに言われますか。道吾禅師言う:人を助けたいと言う手や、人を助けたいと言う眼が、体全体に行き渡っている。

※西嶋先生解説
二人の方がいずれも観世音菩薩と言うものは、体全体が人を助けたいと言う手、あるいは人を救いたいと言う眼であって、その事は我々自身の中に内在している生命の働きと言うものの象徴だと理解しておられたと解する事が出来るわけであります。



          ―西嶋先生の話―

涅槃(ねはん)という考え方が仏教にはあります。涅槃とは感情の起伏がなくなって非常に静かになった状態を言うわけです。道元禅師も「正法眼蔵」の中で、仏道修行の過程を述べられた際に、発心・修行・菩提・涅槃という事をよく言われているわけです。したがって道元禅師の場合にも、仏道修行の究極の状態が涅槃であったという事は言えるわけです。

今日仏教が論じられる場合に、この涅槃という状態を問題にする例が割と少ないという事があるわけです。それはどうしてかと言いますと、人間はしょせん涅槃という状態には到達し得ないというあきらめが先に立って、涅槃というもの自体を問題にする考え方は仏教の考え方の中でも小乗仏教的な考え方だという理解が割合多いわけです。ただ、仏道修行をやっておりますと、この涅槃というものが当然仏道修行の究極の姿でなければならないという事が言えるわけです。

我々は坐禅をやっているわけですが、坐禅をしている時の状態がプラスマイナス0の状態であり、そういう状態が24時間続くことが涅槃の状態であると言えるわけです。その点では、朝晩坐禅をすることによって絶えず三昧の状態を保持する、そのことが365日続けば一年間涅槃の状態にいたのであるし、10年間続けば10年間涅槃の状態にいたという事に他ならないわけです。

ですから坐禅という修行を実際に毎日やっていますと、涅槃に到達することはそう難しいことではない。ただそれと同時に、そういう修行法に頼らないと涅槃というものを頭の中で考えただけでは、とうてい人間には到達できないものだという理解が残ってしまうという問題があるわけです。

その点ではよく浄土宗の思想を例に挙げまして「親鸞聖人でさえ涅槃という状態には到達し得なかったんだから、まして我々はそういうものを目標にすること自体はおかしい、僭越である」と、こういう理解もあり得るわけですが、親鸞聖人、法然上人が非常に難しいと感じられた修行法とは、当時の比叡山におけるほとんど超人的な修行法が大変難しいと、こういうふうに言われただけであります。

その点では坐禅と涅槃との関係から言いますと、毎日坐禅をやることによって涅槃の状態に入ってしまって坐禅を続けている限り、涅槃の状態から出られないというのが仏道修行の実体だと、そういうふうに見ることが出来ると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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