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正法眼蔵 授記 29

釈尊の説法について道元禅師が注釈されます。

今ここに集っている無数の人々による大集団は、その求めるところや理解しているところは違っているとしても、誰一人としてこの素晴しい宇宙の中における一人一人でないという事があり得よう。同時にそれらの存在はいずれも、宇宙の中における一粒一粒の泡でしかないという事でもある。それらの大集団に「妙法蓮華経」のたった一つの言葉、たった一つの詩句を聞かせた場合に一体どの様な事態が生じるであろうか。仮にお前自身の喜ばせ方がほんの一瞬間であったとしても、人々にたった一つの言葉、たった一つの詩句を聞かせる事によって、自分以外の様々な存在を心から喜ばせる事が出来るであろう。

この「妙法蓮華経」の中で、これらの人間その他と言う言葉を使われているけれども、この素晴らしい宇宙の中に生きている様々の人々、様々の生き物、様々の物と言う意味である。だから「皆、釈尊の前において」という言葉を使われているけれども、実は「各人がそれぞれ仏となって」と言う事である。もうすでに仏の境地の中において説法を聞いているのである。

我々が住んでいる様々の世界の中である場合には「これは人間、これは人間でない」と見誤ったりする事があるけれども、人非人や草や木になったとしても、それらの一切のものは、やはりこの素晴らしい宇宙の中の存在であることには変わりがない。その様な一切のものに対して釈尊が例外なしに「お前方は仏であるぞ」と言う保証を与えるのである。そして釈尊が例外なしに「お前方に仏である保証を与える」と言われたのであるから、その対象となった一切のものが、まさに最高にして均衡の取れた真実と言うものを得ると言う事に他ならない。



              ―西嶋先生の話―

今日は最初に欲望という問題について申し上げておきたいと思います。欲望という問題は非常にくだらんつまらない話の様でありますが、宗教に関連しては非常に大切な中心的な問題になるわけです。そしてまた仏教の欲望に対する考え方は他の宗教の欲望に対する考え方と少し違うという面があるわけです。ですから欲望の問題を仏教でどう考えているかという事がわかってきますと、仏教という宗教がどういう考え方を持っているかという事がわかりやすくなるという面もあります。

欲望の問題を考えていく場合にも、仏教の原則に従いまして1苦諦(欲望を罪悪視しない)・2集諦(欲望を勉強する)・3滅諦(欲望には自然の限界がある)・4道諦(限界の中の欲望は欲望ではなくなる)という四段階で考えていきます。

まず1・苦諦の立場で仏教が欲望をどう見ているかという事を考えてみたいと思います。苦諦とは頭で問題をどう考えるかという観点からの問題の取り上げ方になるわけです。その場合に仏教が欲望をどう考えているかと見てまいりますと、欲望を罪悪視しないという態度が仏教には基本的にあるわけです。

なぜそういう事が言えるかというと、仏教、特に大乗仏教の基本的な考え方の一つに「煩悩即菩提」という考え方があるわけです。この「煩悩即菩提」と言う考え方はどういう意味かというと、煩悩とは人間を煩わすという意味で主として欲望を指すわけです。即とはすなわちという事で煩悩が菩提と一つのものだと言う意味をあらわしているわけです。菩提とは仏教徒が一所懸命求めているところの真実という意味です。従って「煩悩即菩提」とは欲望が真実であると言う主張です。

それはどういう事を意味するかというと、我々の人生においては欲望がありますがその欲望をどう考えるかという問題について、仮に人間が欲望がなくなったらどうなるかという事を考えてみますと、命がなくなるという事でもあるわけです。ですから欲望とは人間が生きているという事実の裏側である、あるいは事実そのものである。生きるという事そのもの、生命そのものもが欲望だという考え方を「煩悩即菩提」という言葉で述べているわけです。
                      
仏教の考え方は普通の宗教と欲望に対する考え方とかなり異なっているという事が言えるわけです。普通の宗教ではかなりの宗教が欲望というものは罪悪であるという。それは本来避けるべきものであるけれども、人間はそれを避けることが出来ない。したがってそういう罪深い人間は神に対して謝罪しなければならない、あるいは許しを乞わなければならないと、こういう考え方が普通の宗教が欲望に対して持っている基本的な考え方だと言えるわけです。

ただ仏教はそういう考え方をとってはいない。こういう事がまず最初の考え方としてあるわけです。しかしこの問題に関連して、仏教の中でもキリス教と非常に似た考え方をしておる流れがあるわけです。それはどういう流れの宗教かというと、浄土系の仏教思想ではキリト教的な欲望の考え方と非常に似た考え方をしておるという面があるわけです。ですからその点では逆に、浄土系の仏教思想というものは仏教思想本来の考え方とかなり性質が違っておると、こういう事が言えようかと思うわけです。
                            つづく--


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コメント
620:欲望の問題について(苦諦の立場から西嶋先生の話) by せっせせっせ on 2018/01/12 at 01:14:59

欲望を罪悪視しないという仏教の態度。
さらに欲望が真実であると言う主張、
生命そのものが欲望だという考え方、
すなわち「煩悩即菩提」ということを今日知りました。
そうしたら何か心の構えが取れたような、
何かスッキリ爽やかな風にあたったような、
ストレートに自分をそのままに出せそうな、
何か腫れ物が取れたような気分になりました。
随分今までの人生の長い時間をこの欲望との葛藤に費やして来たように思います。
欲望がこれからは、良い意味でエネルギーとなるように思いました。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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