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正法眼蔵 授記 16

玄沙師備禅師と雪峰義存禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

この様に法(宇宙秩序)に欠けたところもなく、欠けた法(宇宙秩序)の重複もないという事が、真実を得られた沢山の方々が真実を得られた沢山の方々に対して「お前は仏である」と言う保証を与えてこられたことに関連しての基本的な理論である。

まさにこの様な事情から雲頂徳敷禅師は言われた。「真実を得た方々は古来から払子を立てて東西南北の人々に説法されたが、釈尊の説かれた教えは、きわめて微妙であって、しかも人目につく派手な教えではない。そのような教えであるから、どうしてそれを学ぶことがたやすいことがあり得よう。この釈尊の教えに関連しては、もしも師匠の教えがなかったならば、奥深い釈尊の教えを語る事がどうして出来よう。釈尊の教えが幸いにして語れるようになったのは、師匠の教えによるものである」と。

※西嶋先生解説
この様な言葉を引用されて、我々が仏になるという事、それは師匠から弟子へ、師匠から弟子へという長年にわたる伝承の結果であると同時に、そのような形で仏の境地に入り得た場合には、釈尊であれ、摩訶迦葉尊者であれ、青原行思禅師であれ、一切の過去の祖師方と全く同じ境地になり得るものである。それが仏道における人と人との関係であるという事を言われているわけであります。

この点では、幸い我々は坐禅をやることができるようになった。だから坐禅をやっていたという事は、まさに釈尊から「お前は仏である」という保証を絶えず語りかけられて時間を過ごしたという事になるわけであります。

大抵の人はそういうことを言うと「いや、そんなもったいないことは到底あり得ない。我々はだめです。我々の坐禅はまだまだだめです」というふうに考えがちだけれども、釈尊がやられた坐禅と我々がやった坐禅と体の形というものは全く同じ。体の形が全く同じになるという事は、釈尊の気持ちと我々の気持とが全く同じになったということでしかないわけです。だからそういう点では、坐禅をするという事が仏になる事だと、そういうふうに理解して間違いないわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生がこういう人が仏道的人間だ、と言う様な人は具体的にいらっしゃいますか。

先生
各人が自分の本質を発揮しておるという場合には、その人々はすべて仏だと言っていいと思います。ですから相対的な比較の問題ではなしに、本人の本質をいかに発揮しているかということに尽きると思います。

質問
自分の本質を発揮しているかしていないかを、どうやって見極めていくんですか。

先生
これはね、本人が気が付かなくても仕方がないし人から認められなくても仕方がない。事実として自分の本質を発揮しておるという事があれば、それは非常に貴重なことだという風に言っていいと思います。

質問
それは他覚じゃなくて、自覚ですか。

先生
いや、自覚ではわからんと思います。

質問
ああ、そうですか。自分じゃそう思わなくて、一般的な行動とか・・・。

先生
うん。ですからその点で、自分がこういう状況になっておるかどうかと言う事はわかるもんではないから、そこで機械的に朝晩坐禅をするということになるわけです。結局自分で「俺は仏だ」とか「仏でない」とかというふうな事はわからんわけですよ。そうすると、何が基準になるかと言えば、「今朝も坐禅をやりました、今晩も坐禅をやります」という事実だけが頼りになってくると、そういう事があると思います。

質問
くどいようですけど、その坐禅をやっている時の方向性ですね。あさっての方を向いて坐禅をしていても、何にもならないわけですけれども、その基準と言いますか、その鼻づらをきちんと整えてくださるのは先生ですが、やっぱり自分自らの坐禅の中でそういうことがわかってくる・・・。

先生
うん。それと同時に、坐禅はするかしないかで大きく分かれるんです。で、坐禅をやっておるという事実があれば、内容がどうであるとか、方向がどうであるとかということはあまり大きな問題ではないんです。やるかやらないかに非常に大きな違いがある。だから機械的に朝晩坐禅をやるということが意味を持ってくるというのが私の理解の仕方です。

で、こういう理解の仕方をしている人というのは、今日のところあまり多くないんですけども、仏道というのは所詮は坐禅をやった時の中身そのものだと、こういう事が基本にありますから、そうすると、仏教書の中に書かれておるような理論というものが大切なのではなくて「今朝も坐禅をやりました、今晩も坐禅をやります」という事実そのものだけが頼り。


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コメント
618:管理人のみ閲覧できます by on 2017/12/30 at 15:39:43

このコメントは管理人のみ閲覧できます

619:Re: ありがとうございました。 by 幽村芳春 on 2017/12/30 at 16:45:07

鍵コメさん、毎日読んでいただいてありがとうございます。
毎日朝夕坐禅をしているという事は、それこそ「仏」ですね。
西嶋先生は「坐禅をして正法眼蔵を読んでいれば、それですべてOKです」といつも言っておられました。
まだまだ「正法眼蔵」は続きます。来年も一緒に勉強していきましょう。
よいお年をお迎えください。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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