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正法眼蔵 海印三昧 28

曹山本寂禅師と僧侶との問答について道元禅師の注釈は続きます。

「この宇宙というものは死に絶えた者は取り付いている事ができないと言われたけれども、一体それはどうしてそうなんでしょうか」と僧侶が聞いた
けれども、この質問は言葉の外見からすると、僧侶が疑問をもってこの質問をしたように見えるけれども、この僧侶も仏道の究極を承知していて質問の形で自分の主張を説いたものであろう。

この僧侶と同じ様な優れた弟子の例として普化禅師の話がある。臨済禅師が普化禅師に対して「従来この男は只者ではない思っていた」というふうな見方をした場合には、普化禅師の人格を見抜くような状態に臨済禅師そのものがなり得た時である。そういう境地に立った時には、同じような只者でない人物と人物が見合ったところの状態である。

このような言葉では表現できない極めて優れた世界の中においては、どうして生命の絶えたものは入れないと言う狭い世界であり得ようという意味にもなるし、生命の絶えたものはその中に留めておかないという狭い世界でどうしてあり得ようという意味にもなる。この場所において様々のものが、これこのように既に目の前にある。どうして生命の絶えたものがその中に留まらない事があり得よう。



           ―西嶋先生にある人が質問した―
    
    --つづき
質問
中々わからないんですけれど・・・。お釈迦様も道元禅師も先生も共通点がありますよね。先取りしています。時間的に。将来はこうであるべきだということを示しておるんです。で、ご自分でもそれを行動にして示しておられるんです。ところがその時代の大勢の人、まあ私なんかもそうですけれども、中々わからなくて先生がおっしやるように「坐ればわかる、自転車に乗ってベダルを踏めばわかる」と言っても、坐らなくても自転車に乗ってベダルを踏まなくても、私が申し上げましたように、現在どうにか間に合ってるということが障害になっていると思います。

先生
その点でね、間に合っているだけで満足することが人間にできれば問題はないんですよ。ただ、人間というのは今日ご飯が食べられるという事だけでは満足しないんですよ。何か意味のある事をやりたい、死ぬまでには多少は意味のある事をやりたいというのが人間の本性ですよ。「食べるに困らんから、まあそれでいいや」ということだけでは、人間自身が満足しないという性格があると思います。

これは人間性の一つの特徴で唯物論的な立場に立つならば、「ご飯さえ食べられれば何の文句もないじゃないか。ご飯を食べたり、手洗いに行ったり、面白い遊びをしたりということ、それだけで十分じゃないか」という考え方があるわけですけれども、人間というのは不思議なもので、それだけではどうも満足できないというふうな性格が人間性の本質にはあると思います。だから、”間に合っている”と言うだけでは人間そのものが満足しないと、そういう問題があると思います。

質問
先生がいま「ペダルを踏む」とおっしゃったのは、釈尊が明けの明星を見て初めて悟ったことが常勤だという、そのことでございますね。

先生
うん、まあそういうことです。もっと具体的にいえば、毎日坐禅をやることが仏道修行だと、そういう意味です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫と店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。    

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