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正法眼蔵 海印三昧 2

海印三昧の巻、本文に入ります。

仏教の世界では釈尊以来たくさんの祖師方が真実を得られた。その方々はいずれも、その境地として海印三昧と言うものを持っておられた。真実を得られた方々が説法する時も、日常生活を体験する時も、日常生活を実際に行動で生きていく場合にも海印三昧と言うものは常にある。つまり坐禅で得られた心の落ち着きや、坐禅で得られた体の落ち着きと言うものは常にある。

そしてそれはちょうど、表面に見えるものと内側に見えるものとの両方の要素があって、海の表面を進んで行く様な場合には、必ずその裏側として海の底を歩いて行く様な要素も含まれている。今度は海の底を進んで行くと言う様な境地を考えてみると、その裏側には必ず海の表面、人に見えるところを進んで行く様な要素も同時に含まれている。

我々は生き死にの境涯を流浪する事から離脱し、何とか本源に還りたいと普通は考えるけれども、これはあせりの姿であって、言葉では表現する事の出来ない幽玄な心のあり方とは異なる。我々が坐禅をする事によって、今まで持っていた様々な関所を通り節を打ち破る。その関所を通り、節を打ち破っていく人々とは、それぞれ真実を得られた方々であるけれども、いずれも海に似た至福の境涯と言うものの中で、関所を通り越え節を打ち破って進んで行くのである。

※西嶋先生解説  
そのことはどう言う事かと言うと、我々の人生には色んな難しい問題があるけれども、結局坐禅で解決して生きて行くと、こういう事でしかない訳であります。そういう点では、過去における仏教界の沢山の先輩方も、いずれも坐禅を頼りにして難しい問題を通り越して生きていかれたと言っている訳であります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
この「海印三昧」を理解するためには、過去の講義でございました「有時」の巻とか、「礼拝得髄」の巻とか、「心不可得」の巻とか、そういった巻を再び戻って合わせ読まない事には、中々この「海印三昧」の真意というのは我々にはつまめないんじゃないでしょうか。

先生
今挙げられた巻の中で「有時」の巻とは非常に関係があります。つまり現在の瞬間というものをとらえて、その一つの表現として「海印三昧」というものを主張しておられるわけですから、「有時」の巻の思想とは非常に近いわけです。

質問 
そうしますと、もうすでに「有時」の巻は終わっていますから、その「有時」の巻をもう一度振り返ってよく読みますと、この「海印三昧」の教えというものがよくわかるという事ですか。

先生
ただその場合に、まあそういう努力も一つの方法ですけれども、坐禅をしては「海印三昧」の巻を読む、坐禅をしては「海印三昧」の巻を読む、それを何回もやってますと自然にわかって来る。「正法眼蔵」というのは何処の巻もそうなんですよ。つまり、文字と文字を寄せ集めて、ここの意味はこういう意味、ここはそう理解すべきだというような、それも役に立ちますけれども、一番基礎にあるのは坐禅をしている時の心境なり、自分の体の実感なりなんです。

だからそういう感じを味わいながら、わかっても分からなくても「海印三昧」を何回も読んでいると、「ああ、なるほどそうか」という感じがにじみ出てくるという、そういう面があります。「正法眼蔵」の読み方というのはみんなそうだと思ます。だからその点では、わかったとかわからんとかという事はあまり気にする必要がなくて、実感としてにじみ出てくるものを味わえばいいという事があると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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