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正法眼蔵 行持(下) 63

道元禅師が「行事の巻」最後の主張を述べます。

静かに考えてみる必要がある。人の一生はその長さから言うならばそう大したことはない。釈尊と同じような境地の言葉が仮に3つとか2つとかほんの僅かでも言えたという事は、釈尊ご自身の境地を言葉にして言う事が出来たのと同じ意味がある。なぜかと言うと、釈尊の説かれた教えや釈尊の境地というものは、体と心が全く一つのものだと言う事が原則であるから、仮に1つの言葉、2つの言葉と言う僅かな言葉であろうとも、その言葉はすべて釈尊の温かな体であり温かな心である。

釈尊の体や釈尊の心と言うものが自分のところにやって来て、自分の体や自分の心となってその言葉を言わせたのである。その様な真実の言葉を口する時というものは、釈尊の説かれた真実の言葉というものが自分の体や自分の心にやって来て、自分の体や自分の心を言葉と言う形で表現している事に他ならない。

我々の一生は短く、生きている間に様々の境涯を何回も経巡るかも知れない。その何回も経巡るかも知れない体を、真実の境涯に置くと言う事をやるべきである。この様に我々が一生の中で現実に仏となり、達磨大師や諸先輩と同じ境地に入るのであるから、その事は現実の我々の人生の中で釈尊を超越する事でもあるし、仏教界の諸先輩を超越してしまう事でもある。

3つとか2つと言う僅かな言葉であっても、それが清い行いや戒律の保持に繋がる言葉あるならば、その持っている意味は今述べた通りである。何の役にも立たない名誉や利得を追いかけて、一所懸命それの奴隷になるという事は避けるべきである。そこで皆さんに勧めたい事は、都市の中に住む俗世間から離れて生きている人も、人里離れた所に住む俗世間から離れて生きている人も、たとえ一人前であろうと半人前であろうと、一切の事柄や一切の環境を投げ捨てて釈尊と同じ様に清い行いや戒律の保持を実践するべきである。

              「正法眼蔵行持」
              1242年の旧暦4月5日
              観音導利興聖宝林寺においてこれを書いた。



        
              ―西嶋先生の話―

以上が「行持」の巻であります。最後のところに名誉や利得を問題にしないと言う事が書いてありますが、その事と我々の社会生活とがどういう関係にあるかという事、これは考えて見る必要がある。我々は日常生活で経済生活を送っているわけであります。特に商人というのは営利を目的にするわけです。だから名誉や利得は関係ないと言う事になると、社会的な義務が果たせない。その事は名誉や利得というものは最高の価値ではないけれども、立場立場によって、たとえば商人の様な場合には利益を得る義務がある。 

これは、自分が金が欲しいとか金が欲しくないとかという事ではなしに、経済生活をやる以上、利益を得なければならないと言う義務を負わされていると、この様に考えておく必要がある。在家・出家と言う立場がゴチャゴチャになって、何でもかんでも金を投げ捨てるという事が仏道修行だという事にはならない。社会生活には様々の立場があり、様々の努力目標があるわけです。それぞれの努力目標に従って一所懸命に生きるというのが仏道修行。それが「行持」という事。清い行いであり、戒律の保持と言うのはそう言う事を言われておるわけです。

ただ、名誉とか利得と言うものが最高の価値と言うふうに映って来ると、そこで仏道修行が止まってしまう。その事を道元禅師は非常に警戒されたから、名誉というものを避けるようにいわれた。そういう問題がある訳であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
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平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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