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正法眼蔵 行持(下) 61

天童如浄禅師(道元禅師の亡き師匠) と趙提挙の問答は続きます。

天童如浄禅師言う。   
貴方は聡明でいま述べた私の説法をはっきりと理解され、甚だ恐れ多いとことだと思う。貴方がこの席においでになっただけでも幸いであり嬉しく感じる。そしてさらに望ましい事は、貴方のような高貴な方の臨席を得、しかも最後までお付き合いいただくという光栄に浴したのであるから、愚僧が正式の説法をした時にどの様な教えを説いたか試しに言葉で表現していただきたい。それを判定してみましょう。言葉で十分な真実の言葉を言う事ができたらこの銀の延べ棒一万個は私が頂きましょう。十分な真実の言葉を言う事ができなかったならば、役人の方々はご面倒ですが銀の延べ棒一万個を手元にお納めください。

そこで天童如浄禅師の前に行きお辞儀をしてから趙提挙言う。
恭しく考えますに、本日は和尚のご機嫌もよろしく、立ち振る舞いもとどこおりなくたいへん結構に存じます。

天童如浄禅師言う。   
いま貴方が言われたところは私が説法しところだ。貴方がどういう話を聞いたか、その話を聞かせてほしい。

趙提挙は即座に返答が出来なかった。そこで、さてどう返事をしたものだろうかと戸惑った。
 
そこで天童如浄禅師言う。    
亡くなったご先代の冥福と言うものは、完全に具わっている。この贈物を頂くかどうかについては、とりあえず先代の方がどう言う判断をされるか、その判断に任せよう。

この様に言っておいとま乞をしたところが、趙提挙言う。    
この贈物を受け取って頂けなかったこと決して残念には思いません。和尚にお会いできた事がただただ嬉しいだけです。

この様に言って天童如浄禅師を見送った。

この話を揚子江の南岸地方に住む僧侶も俗人も、大抵の人は心から賞賛した。このことは平と呼ばれた侍者の日記に書かれている。平侍者の日記には「この老和尚天童如浄禅師は中々容易には得る事ができない人物である、どこにこの様な立派な人を簡単に見る事ができよう」と書いてある。

沢山の地方に多くの僧侶がいるが、僧侶の誰がこの1万鋌の銀子を受け取らないという人があったであろう。過去における先輩たちも金銀、真珠、宝玉を見た場合に、糞や土と同じ様に見るがよいと言っている。金は金、銀は銀として貴いものとして見る事はいっこうに差し支えないけれども、受け取らないと言う事が僧侶としての仕来りである。

天童如浄禅師にはこの様な事例があったけれども、天童如浄禅師以外の人々にはこの様な事例はない。そし天童如浄禅師はいつも言っておられた「300年来、自分と同じ程度に徳の具わった僧侶は出ていない。お前方はこの事をよく勉強して考えてみる必要がある」と。
 
             
           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
金を受け取るとか、受け取らないとか、それを断ったら結果的にみんなから尊敬される。なんかあんまり出来すぎちゃって、私は感心できないな。(笑)

先生
金銭を受け取る、受け取らないの問題にしても沢木老師はよくこういう話をされた。江戸時代に月僊という人がおった。当時伊勢神宮が非常に衰微していた。そこでその月僊という僧侶は何とかして外宮を再建したいという念願を持ったわけです。その月僊という僧侶は絵が上手だったんで、その自分の絵を金にすると沢山の金が入る、その金をためて何とか伊勢神宮の外宮を再建しようという事を一生の念願にしていた。

ところある遊女がいて、月僊は絵は上手だが金に汚いと言う話を聞いていた。そこで遊女は月僊をバカにしてやろうと言う事で、月僊が来た時に壁に腰巻をぶら下げて「この腰巻に礼拝したら絵を買つてやろう、金をやろう」と言った月僊は恭しくその腰巻に礼拝した。その事はどういうことかというと、金が欲しかったのではない、ただ伊勢神宮の外宮を再建しようと言う念願からするならば、どんな真似でもするぞと言うのが月僊の意思だった。
    
沢木老師はよくこの話をしておられたけど、人間の一生とはそういうもんです。自分自身が全身全霊を打ち込める様な対象を持って、それにぶつかって行くと言うのが人生です。それ以外の人生はない。そういうものを自覚しないで、何となく周囲の事情だけで時間を潰していくならば、人生もったいなさ過ぎる。せっかくの命を、無駄な事に使いすぎると言う面がある。だから金を受け取る、受け取らないという事は、どうでもいい事。
    
受け取るべき金だったら、百億であろうと千億であろうと「ああ、ありがとう」と言って懐に入れてもいっこうに差し支えない。そうかと言って、一銭であろうと受け取るべきでない金は「いや、これは結構です」と言うふうに断るという事、これが仏道です。そうなってくれば、金の価値なんて言うのはどうでもいい事。権力なんていう事はどうでもいい事。もっと大事なものが人間一人一人の中にあると言う事、その事が真実と言うものの基礎にある。
    
そういう点では、金や権力と言うものを問題にしていると、その奥にある真実と言うものが分らなくなってしまう。そういう真実というものを外して、外側の適当なところで満足してしまうと言うのは人間の一生としては余りに勿体ない。そういう意味から「名利の心を避けろ」と言われた、こう言う事が道元禅師の真意だと、そういう見方でいいと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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