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正法眼蔵 行持(下) 60


天童如浄禅師(道元禅師の亡き師匠)に関連して道元禅師の話は続きます。

趙提挙という人は、嘉定年間の中国の皇帝であった寧宗皇帝と血筋の繋がった孫であり、明州の軍総監であり、地方における農業の管理をする長官でもあった。天童如浄禅師を都に招待して正式の説法をお願いしたときに、銀の延べ棒を一万鋌、布施として天童如浄禅師に差し上げた。

天童如浄禅師は正式の説法が終わってから趙提挙に向かって感謝して言う。
自分は先例に従って寺院から外に出て正式の説法の機会を与えられ、正法眼蔵(釈尊の説かれた正しい宇宙秩序の眼目の所在)や涅槃妙心(なんとも言葉では表現出来ない至福の心境)の意味を説法して、謹んでその幸いが亡くなった先代の幸福に繋がる様にと奉つった。ただしこの銀の延べ棒はどうしても頂くわけにはいかない。僧侶にとってこの様なものは必要ではない。頂いたことについては大変ありがたい事ではありますがそのままお返しいたします。

そこで趙提挙が言う。
和尚様、自分はありがたい事に皇帝陛下の親族であるために、どこに行っても地位に恵まれ財産もご覧の通り多い。そこでいま父の冥福を祈る日に当たって、あの世における父親を助ける意味でこの銀の延べ棒を差し上げたいと思う。その様な事情であるのに、和尚はどうしてこの銀の延べ棒をお受け取りにならないのか。本日は幸福な感じを味わいました。どうか大きな慈悲心を持って、このままささやかな贈り物を受け取っていただきたい。

天童如浄禅師言う。  
提挙よ。貴方の命令は決して疎かにしている訳ではなく非常に厳しいものとして受け取っている。何としてでもこれを辞退すると言う事ではない。ただ決して理由がないわけではない。自分はいま正式の座に上がって説法をした。それに対して貴方ははっきりと私の説法の意味が理解できたかどうか。
   
そこで趙提挙言う。
自分はただ和尚の説法を聞いて、嬉しくて仕方がなかっただけです。
                           
                         つづく--



              ―西嶋先生の話―

仏教と言う思想は非常にやさしい思想であると同時に、非常に難しい思想であると、最近そういう事をしきりに感じます。なぜやさしくて難しいかと言うと、仏教の一番のねらいは、我々の住んでいる世界を「ありのまま」に見るという事。ところが、「ありのまま」に見るという事がなかなか難しい。我々は、我々の住んでいる世界というモノを「ありのまま」に見る事をしないで、何らかの解釈を交えて見ようとする。

この世の中がどうだこうだという事を頭で考えて理解しようとする傾向が強い。ただ頭で考えた事というのは、我々が生きておる世界とは別の世界を自分の頭でつくってしまう恐れがある。そのことが仏教が非常に難しくなってしまう原因であると考えられる訳であります。「ありのまま」に素直にこの現実の世界を眺めるという事が簡単な様で実は難しい。なぜ難しいかと言うと人間が解釈を交えるから。

それからもう一つ、「ありのまま」に見る事が出来ない大きな原因は我々の持っている習慣。「オギャ―」と生まれてから何十年かを過ごしているわけですが、その何十年かの間にいろいろな習慣がつく。その習慣が我々の住んでいる世界を「ありのまま」に見る事を邪魔するという事があるわけです。

「ありのまま」に見る事が出来ない原因を仏教では「迷い」と言う。長年の習慣で「ありのまま」に見る事が出来ない事を仏教では「執着」と言う。だから、「迷い」と「執着」とが邪魔をするために、我々は自分の住んでいる世界を「ありのまま」に見る事が出来ない。そうすると、仏教という思想は「迷い」と「執着」を離れる事がねらいという事になるわけです。

我々が坐禅をするのは、何の為にするかというと、迷いを離れた状態、執着を離れた状態に我が身をおくという事が、坐禅のねらいという事になるわけであります。道元禅師が身心脱落(体や心が抜け落ちる)と言われた事の意味も「迷い」「執着」を離れる事を意味しておられるという見方で差し支えないと思うわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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