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正法眼蔵 行持(下) 57

天童如浄禅師に関連して道元禅師の話は続きます。

自分(天童如浄禅師)がかつて径山の寺に逗留していた頃、仏照徳光と言う人がその寺の住職をしていた。この仏照徳光住職が法堂に上がって正式の説法をした際に言われるには「釈尊の教えや坐禅によって求める真実と言うものは、必ずしも他の人の言葉を頼りにして理解すべきものではない。各自それぞれ理解せよ」という説法をしていた。

この様な説法をして、僧侶が修行している寺院の中や坐禅堂の中でも、僧侶が何をやろうとそれを咎めるという事がなかった。僧侶同士でも、何をやっても、相手の誤りを指摘すると言う事はなかった。そして政府の役人がやって来ると、その役人の後につき従って機嫌を取るばかりであった。

私(道元)の見た限りでは、この仏照徳光住職は特に釈尊の教えの一番大切なところがわかっていなかった。ただ名誉を貪ったり、利得を愛したりと言う事だけであった。仮に釈尊の説かれた教えが各人それぞれの理解で済むならば、過去の沢山の先輩方がどうして師匠を尋ねて真実を求め歩く事があったであろう。まさに仏照徳光住職こそは、かつて坐禅をやった事のない人である。

今中国の各地方に沢山の仏道修行の経験者がいるが、それらがいずれも真実を得たいと言う気持ちを持っていないのは、仏照徳光住職の弟子である場合が多い。どうして釈尊の説かれた教えと言うものが、かの仏照徳光住職の手の中にある筈があろう。仏照徳光住職の教えを受けて仏教でない思想に惑わされて、仏道修行が済んだと思っている人々の様子は非常に惜しい事である。

天童如浄禅師がこう言う事を言われた時に、それを聞いている仏照徳光住職の弟子も沢山いたけれども「いや、そんな事はない、師匠の悪口をなぜ言うか」と言って反論する弟子は一人もいなかった。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
 
質問
「四弘誓願」の中に「煩悩無尽請願断」というのがございますね。今まで我々は大変な勘違いをして、煩悩を無理やり押さえつけちゃうとか、なくすためのような感じを受けておりましたが・・・。この四弘誓願の中の一つ「煩悩無尽請願断」というのは、先生のお考えで言うとどういう事なんでしょうか。

先生
「四弘誓願」というのはかなり古い時代からあるという事は言えると思います。「煩悩無尽請願断」というのも、仏教の基本的な考え方からするならば、例えば水を例にとると、堤防というのは水を塞き止めるために作るのではなくて、素直に水を海の方に流すために作るんだと、そういう意味で煩悩というものも素直にあるべきところへ戻すというか、あるべき状態に置くというか、そういう事が「断」という意味に理解していいと思います。

質問
「煩悩無尽請願断」の「断」というのは否定することじゃないんですか。

先生
結局、言葉の上では否定する様な表現になっていますけれども、否定すると言うふうに理解すると、仏教の基本思想から外れます。仏教の立場からどう理解しなければならないかと言うと、断ち切ると言う意味ではなしに、出て来なくなるというか、煩悩のありのままの状態に置いておくと言う意味にとるべきだと、こう言う理解の仕方です。

質問
「断」は英語で言うなら「ストップ」ですか。

先生
うん、言葉から言えばそういう意味です。だからそういう点では、仏教の思想を理解する場合に、坐禅から得た体験を基礎にして、一切の仏教哲学を理解するという事が非常に大切な訳ですよ。坐禅の経験なしに、文句の面で、あのお経にはこう書いてある、このお経にはこう書いてあると言う形で勉強していくと、お経は一人の人が書いたわけではなく、何千何万と言う人が書いたものの集積ですから、各人に各人の理解の仕方、説明の仕方があるわけですよね。
    
それを全部ひっくるめて理解しようとすると、これはとても不可能だという事になる訳であります。そうすると基礎に何をおくかと言うと、坐禅の実際の体験を基礎にして、その立場から、どう言うふうに理解するべきかと言う事で考えていかざるを得ない。そうしないと仏教思想そのものがいつまで経っても理解出来ないと、そういう事になるわけです。そう言う事が実際問題としてある訳です。

※私の独り言。
釈尊は35歳のときにブッダガヤの菩提樹の下で成道したと伝えられている。なぜ坐るかと言えば、釈尊がブッダガヤの菩提樹の下で坐っていたように、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして全部釈尊と同じ格好にするならば、否でも応でも釈尊と同じ境地になれるから。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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