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正法眼蔵 行持(下) 55

天童如浄禅師に関連して道元禅師の話は続きます。

ある人々はいう。「沢山の人々に利益を与えるために自分は名誉を貪り利益を愛する。自分が権力を持たなければ沢山の人々を救済することはできない。自分が沢山の財宝を持たなければ人々を救済することができない」と。そういう理由から、名誉を貪り利得を愛すると主張する人々もいるけれども、この様な考え方というものは誤った主張である。釈尊の教えに従っているという外観は呈しているけれども、その考え方は仏教の考え方と別の考え方である。

釈尊の説かれた教えを誹謗するところの悪魔の仲間であろう。もしある人々言っている様に、名誉を貪り利益を愛することが沢山の人々を救うためだという事であるならば、名誉や利得を貪らなかったところの釈尊やその他の教団指導者は、たくさんの人々に利益を与えなかったとでも言うのであろうか。その様な主張はきわめて滑稽な話である。名誉や利得を貪らなくても、たくさんの人々に利益を与えたくさんの人々を救済したと言う事実がある。そのような事実を一体どの様に考えるのであろうか。

過去の教団指導者が沢山の利益を人々に与えていると言う事を学ぶ事なしに、真に人々の利益になっていないのに、人々に利益を与えていると自称する人もいるけれども、それらは悪魔の類と言う事が出来るであろう。この様な人から利益を与えられる人々は、いずれ地獄に落ちて行くであろう。名誉や利得を愛する人々によって助けられた事があるならば、一生の間、決して光を見ることができない境遇に落ちるであろう。そのことは非常に悲しいことである。誤った考えの人々を他の人々に利益を与えた人だと呼んではならない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅中の意識についてお伺いしたいんですが、坐禅をしておりますと絶えず私自身雑念が湧いてくるんですけれども。よく言われるように「雑念を相手にするな」と。そうしておりますと、確かにある瞬間というか、ある間というか、無念無想というか、非常に澄んだ気持ちを自分で覚えることがあるわけです。それから坐禅が終わった後でもそういう意識があるわけですが、そういう意識を持っているという事は、やはり雑念の意識なんでしょうかね。

先生
いや、それは自分に対する意識というものを問題にする必要はないという事が実情になると思います。ですから坐禅の普通の状況というものを具体的に言ってみますと、坐禅を始めて大抵の人が何かを無意識のうちに考えているわけです。ただ無意識のうちに何かを考えているという事も気がつかないで坐っていると言うのが最初の状態だと言えると思います。

で、しばらく時間がたちますと、「何か考えていたな」ということに気がつく。それから今度はあまり考えない様にしようという努力が始まって、考えたり、考えなかったりという状態がしばらく続く。それからある一定時点では「考えまい」という努力も要らなくなってくる、きわめて落ち着いた状態で坐っておるという段階も生まれてくるわけです。

そうして仏道の狙いというのはどういう事かと言いますと、無我夢中になるということです。坐禅の時には無我夢中になりにくいんですよ。そのことは反面、坐禅の中で自分の意識というものが二つに分かれていない状態、あるいは坐っていることに本当に熱中した状態というものが現れてくるならば、それが仏道の狙いだ、坐禅の狙いだと、こういう事が言えるわけです。

日常生活における方が、そういう点ではいわゆる三昧になりやすいというふうな事情があるという事は言えるわけです。坐禅では三昧になることが非常に難しいわけです。その代わり坐禅で三昧が得られるならば、どんな日常生活の状態の中でもすぐ三昧が得られると、そういうふうな利点が逆に坐禅の中にはあるわけです。

だからそういう点では自分に対する意識を振り捨てるという事、これが一つの仏道修行の狙いだという事はあると思いますが、それと同時に、日常の坐禅の内容としては、坐禅そのものの中で三昧が得られるという事はかなり難しいわけですが、その難しい状況を利用して三昧の修行をするというのが坐禅の意味という事にもなると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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