トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行持(下) 53

自分(道元)の亡くなった師匠である天童如浄禅師は越の国の人であった。

天童如浄禅師は19才の時に、仏教を文字による理論的な側面からのみ勉強するやり方をやめて、坐禅による仏道の探求を始められ70才の高齢になられても、なお坐禅の修行をやめようとはされなかった。そして南宋の寧宋皇帝から紫の法衣と禅師号とを与えると言われたけれども、これを受けず上奏文を作って辞退申しあげた。

そこで、あらゆる方角にいる沢山の僧侶たちが天童如浄禅師の行いを尊敬した。また遠い地方や近い地方の仏道の知識が深く徳の高い人々が心から喜んだ。寧宋皇帝も天童如浄禅師の行いを大変喜ばれて宮廷用のお茶を与えた。そしてこの事態を知った者は、天童如浄禅師の行いを沢山の時代を通じ稀れな事例とし賛めたたえた。これこそはまさに真実の清い行いであり、戒律の保持である。

なぜかというと、名誉や利得を愛するという事は戒律を犯す事よりも悪い。戒律を犯すという事はその時だけの誤りである。しかし名誉や利得を愛するという事は、一生の間我が身について回り仏道修行の邪魔になる。名誉や利得を愚かな考えを持って捨てないという事があってはならない。

名誉や利得が一体どういう価値のものかがはっきり分らずに、うかうかと法衣や禅師号を受けるという事があってはならない。名誉や利得を受けない事が清い行いであり、戒律の保持につながる。名誉や利得を捨てる事が清い行いであり、戒律の保持である。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

我々が足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッと坐っておりますと、畳の目が見えるとか、障子の桟が見えるとか、その他諸々のものが目に入ってくるわけであります。それは我々が頭の中だけでいろんな理想を考えて、こうすべきだ、ああすべきだという事だけにとらわれておる事情と様子が違うわけであります。我々は現実の世界に生きているんだという事を、坐禅を通じて知ることが出来るわけであります。

そういうものを経験すると同時に、我々は単に肉体的な存在だけではないという事にもはっきり気がつくわけであります。足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッと坐っておりますと、肉の塊以上の何かであると、そういう事を感じ取ることが出来るわけであります。「いや、私は肉の塊だけだ」と無理に考える人もあるかもしれないけれども、我々が足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッと坐っておる時には、単に血液が体の中ををグルグル回っておる、臭いの良くない皮の袋だというだけのものではないという事がしみじみと感じられる。

そういう点では、坐禅を通じて理想主義を乗り越え、それと同時に、唯物論を乗り超えるというのが釈尊の教えでありまして、こういう教えを我々に残してくださった釈尊の大恩というもの、これは仏教を勉強している者にとっては、到底忘れることのできない重大な事実だという事が言えるわけであります。

そういう点では、仏道というものを説く限りは、「理想主義」とか「唯物論」とかと言う言葉を使って説明せざるを得ないという面があるわけであります。かつてはその二つの言葉に代わって、「常見外道」と「断見外道」という言葉があったわけでありますが、今日では、「常見外道」と「断見外道」という言葉よりも、「理想主義」と「唯物論」という言葉を使った方がよりわかりがいいからという事で使うわけであります。

この会に来ておられる方にとっては、比較的耳慣れた言葉ではありますが、一歩この会から外へ出ると、人々に「理想主義」だ、「唯物論だ」という言葉を使って、仏教とはどういう事かという事を説明することは、なかなか骨が折れる仕事であるという事も言えようかと思うわけであります。


いつも読んで下さってありがとうございます。 よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-