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正法眼蔵 行持(下) 52

摩訶迦葉尊者から数えて第32代目の教団指導者である大満弘忍禅師は黄梅という土地の人であった。

大満弘忍禅師は在家の時の姓は周であった。これは母親の姓を称えたものである。大満弘忍禅師はいわゆる私生児として生まれた。それはちょうど老子が父親がなく生まれた事情と同じである。大満弘忍禅師は7才の時に釈尊の教えを継承して以降74才に至るまで、正法眼蔵(釈尊の説かれた教えの眼目の所在)に我が身をおきそれを保持した。そして人知れず袈裟と釈尊の教えを当時まだ僧侶見習いでしかなかった大鑑慧能禅師に密かに託した。

それは他の人では中々できないような清い行いであり戒律の保持という事ができる。そしてこの様に袈裟と釈尊の教えを神秀上座に伝える事なく大鑑慧能禅師に託されたからこそ正しい教えが断絶する事なく今日に至っているのである。

※西嶋先生解説  
大鑑慧能禅師は大満弘忍禅師の寺におられたときは正式な僧侶でなく、寺の雑用をする形で生活しておられ行者と呼ばれていた。なぜ大鑑慧能禅師に袈裟と釈尊の教えを密かに伝えたかと言うと、大満弘忍禅師の教団には神秀上座と言う非常に優れた弟子がいた。

大満弘忍禅師は米つき小屋で米をついている大鑑慧能禅師の方が、仏道の点では神秀上座より上だと見られたので、こっそりと夜中に袈裟と教えとを伝えた。というのは、他の弟子たちが大鑑慧能禅師に嫉妬して、大鑑慧能禅師に危害を加える事を恐れたと言われております。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

ですから、昭和20年8月15日という日を境にいたしまして、日本国民の持っておった宗教が完全に入れ替わったと、こういう事があるわけであります。で、8月15日以降、国民は人間の生活において物質的な基礎がいかに大切であるかという事に気がついた。そこで、今度は「物だ、物だ」という考え方が盛んになりまして、食糧事情についても、どんどん、どんどん価格が上がっていくのを国民が一所懸命買いあさって、今までとは違う食糧事情になってきたわけです。

それからまた食糧事情が落ちつきますと、次は衣料の問題があり、衣料の問題が落ちつくと、今度は住宅問題があるということで、昭和20年の8月15日以降、日本国民は物質的にいかに豊かになるかという事について、また非常に大きな努力をしたわけであります。

それから産業界においても、生産第一主義という事で、経済活動が人間社会の全てであるというふうな錯覚も生まれてきて、その結果、日本の経済というものが世界の人々がビックリするほど急速な発展を遂げたという事情もあったわけであります。ですから、人間の生活において物質というものが基礎にあるという事は無視できない。しかしそれと同時に、物質的なものが人間生活の全てかというとそうは言い切れないというのが釈尊の教えであります。                            

ですから釈尊は、戦前の様に人間が到底実現することのできないような理想を掲げて、それを人々に強制するという考え方が誤りであるという事をはっきり主張されたと同時に、物さえあればすべて解決するという考え方についても批判されたという事があるわけであります。そしてそういう唯心論(理想主義)とか唯物論とかという二つの考え方を乗り越えるために、坐禅をすることを我々に勧められたという事が言えるわけであります。
                        
                             つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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