トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行持(下) 48

芙蓉道楷禅師の言葉は続きます。

時間のたつ速さは矢のようである。過去の先輩方も時間というものを深く惜しめと言われている。このように時間というものは非常にもったいないものであるけれども、人によってはそれぞれ、時間というものが長いというふうに感じている場合もある。この点について拙僧(わし)と言えどもお前方に十分に教えるという事はできない。それほど時間というものの意味は教えることが難しい。

諸子に聞きたい。かつて次の様な過去の先輩の偈(詩)を読んだ事があるか。「山の中の田んぼでとれた脱穀したばかりの玄米飯、時間がたった黄ばんだ野菜を食べ、その様な乏しい食糧事情であるけれども、この寺院に留まって仏道修行をしたいと思うならばいっこうに差し支えない。粗末な食事を嫌うならば、他の地方に旅してまた別の寺院を求め、別の師匠を求めるという事もいっこうに差し支えない」と。

同じく仏道修行を志す諸子よ。各自にそれぞれ努力せよ。 ―以上―

芙蓉道楷禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この芙蓉道楷禅師の説法は、釈尊以来代々の祖師方が一系に伝えて来たところの教えの骨であり髄に相当するほど貴重なものである。大先輩である芙蓉道楷禅師の清い行いや戒律の保持について書かれた文章は多いけれども、今取り敢えずその事情に優れた一つの例としてこの説法をここに掲げたのである。

現代における我々の様な時代を遅れて仏道を学ぶ者は、芙蓉道楷禅師が芙蓉山において仏道修行をされた清い行いや戒律の保持を慕って学ぶべきである。そしてまたこの様な芙蓉道楷禅師が示された清い行いや戒律の保持と言うものが、つまり釈尊が祇園精舎で示された正しい修行のやり方とまったく一つのものである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

今日は梅原猛さんの考え方と我々の考え方とどこがどういうふうに違うかという問題から入って行きたいと思います。今日は喜怒哀楽に関する話であります。喜怒哀楽というのは、喜んだり腹を立てたり悲しんだり楽しんだりという事で、普通「感情」と言われています。心理学の方では情緒と言うふうにあんまり普通は耳慣れない言葉を使うようであります。この情緒というのは感情とまったく同じではなくて、感情が興奮の状態にあるのを情緒と言うようでありますが、これはemotion(エモ-ション)と言う英語の訳語で情緒と言う言葉が作り出されたと言う事情がある様であります。
 
いずれにしても、この喜怒哀楽の問題について梅原猛さんは、道元禅師はどうも笑、怒り、涙というものとあまり関係がなかったようだと。つまり道元禅師の性格は感情的にはかなり淡白で、人間らしくないから近づきがたいという話を書いておられます。まず感情的でない事、情緒的でない事が人間的でないかどうかと言う問題を考えてみる必要があると思います。

普通我々の一般的な常識として、確かに感情的である事が人間的であると言う考え方がある様でありますが、どうもこの考え方は西洋から伝わって来た考え方の様であります。なぜそういう事を言うかと言いますと、私の英語の講義をここ2年くらい熱心に聞いているベ―リ-と言うアメリカの青年がいます。その人とその問題を話したことがある。「仏教では感情的である事、情緒的である事が必ずしも評価されないという傾向がある。むしろ感情的ではない方がいいんだという考え方がある」と言う話をした事があります。

ところがそのベ-リ-という青年がその話を聞いて、非常に興味を持ったし、嬉しそうな顔をした。なぜ彼が嬉しそうな顔をしたかと言うと、彼らは子供の時から感情的である事が人間的であると言う考え方に基づいて、感情を外に表す事を教育で躾けられている。だから彼らは本質的に感情的な性格を持っているのではなくて、感情を表わそうと努力している。つまりそれは、彼らの教育の結果であるし、彼らは感情的に物事を表現する事を義務付けられた負担を感じている。だから「感情的でなくてもいいんだと言う考え方を聞くと救われたような気がする」と、そういう話をしていたわけであります。
 
ですから、感情的である事が人間的なんだ、という考え方が本当にどこの世界でも、どの時代にも通用する原則なのかと言うと、こういう点に一つ疑問があろうかと思うわけであります。
               つづく--


いつも読んで下さってありがとうございます。 よかったらクリックお願いします。


 
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-