トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行持(下) 47

芙蓉道楷禅師の言葉は続きます。

諸子は達磨大師がインドからはるばる中国に来られ、少林寺で壁に向かって坐禅される生活が9年に及び、言葉で人を訓育する事がなかったと言う事を承知しているかどうか。また達磨大師の弟子太祖慧可大師が雪の中に立ちつくして、自分の覚悟を示すために腕を断った行いに到っては、まさに非常に苦しい思いを我が身に受けたという事が言える。

しかしながら達磨大師は、いまだかつてほんの一つの言葉と言えども弟子に与えて訓育するという事をされなかったし、二祖の太祖慧可大師もかつて一言と言えども達磨大師質問されたためしがない。その様な達磨大師と慧可大師との師弟関係を見て、達磨大師は自分の弟子に薫育することは何もしなかったと言う事ができるであろうか。慧可大師を評して師匠に教えを何も求めなかったという事が言えるかどうか。

拙僧は常に、昔の先輩方の実践されたところを説示する段になるとその都度、自分の身の置き場所がないと感じて、我々後輩の軟弱さを恥じ入るばかりである。どうしてさらに様々な味わいの美味な食事を相互になれ合って供することが許されようか。自分は飲食、衣服、寝具、薬の四つのものが整い、今すぐにでも仏道修行をすることができると主張しても、実際には手足がいう事をきかず、生涯を通じて何の成すところもなく、釈尊の境地や先輩方の境地には及ばないという事を恐れるばかりである。

    


               ―西嶋先生の話―
    --つづき
                              
この欲望と言う問題は、たとえば水にたとえて説明する事が出来ると思います。水は非常に貴重なもので、水がなければ我々は一日も生きていられない訳であります。それと同時に、集中豪雨で洪水になると水ほど困るものはない。ですから我々の日常生活においては欲望の存在にしっかり眼を向けると同時に、それが大水になって人に迷惑を与えたり、自分に迷惑を与えたりする事のない様にと言うのが仏道修行の意味だと言う事でもある訳であります。

ですからそう言う点では欲望と言う問題に対して、西洋流の宗教と仏教とでは基本的な考え方が違うという事。この事をしっかり頭において置かないと、仏教思想は理解できないとこういう問題がある訳であります。梅原猛さんの場合は、道元禅師の様な近寄り難い方は煩悩無尽ではないと誤解している。しかし道元禅師は欲望を十分調教して、人にも迷惑をかけない、自分も欲望に引きずられないと言う状態になっておられた。
 
梅原さんはこの様な実情がよくわかっておられなかったと言う気がするわけであります。道元禅師といえども決して欲望がなかったわけではない。ただそれを調教して、自由に自分の意思に従って動かす事が出来る様になっていたと言うだけの問題であります。ですからその点では釈尊も同じです。釈尊の名前を呼ぶ場合に、十種類の名前で呼ぶという事が行われる訳ですが、その中の一つに「調御丈夫」と言う名前がある訳であります。

これはどう言う事かと言うと、欲の馬を乗りこなせた人と言う意味であります。つまり欲望と言うのは暴れ馬みたいなもので、それを乗りこなすと言う事が仏道修行の意味だとこう言う事にもなるわけであります。アメリカの西部にロデオと言う競技があって、若い暴れ馬の背中に無理に飛び乗って、振り落とされない様に頑張って、馬の方がおとなしくなるまで頑張ると言う競技がある様でありますが、欲望の調教も同じ事であります。

つまり、最初は暴れてどうにもならんものを、調教する事によって自由自在に乗りこなす事が出来る様になれば、馬は非常に役に立つ。暴れ馬であればあるほど、よくいう事を聞いて役に立つ。そういう問題が欲望と言うものにはあって、そういう立場から欲望を眺めていくと言うのが仏教の立場であります。ですからその点では、西洋流の考え方と少し立場が違う、そういう問題があろうかと思うわけであります。
                           つづく--


いつも読んで下さってありがとうございます。 よかったらクリックお願いします。


 
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-