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正法眼蔵 行持(下) 46

芙蓉道楷禅師の言葉は続きます。

たとえ今迄述べて来た様な生活をしたとしても、当山においては生き生きとした生活が欠ける事なく具わって、周囲の景色も決して見ごたえのないものではない。花は年々に咲き鳥は年々に歌う事を知っている。周囲の木々は素晴らしい情景を見せ時々の音を立て、石も素晴らしい姿を見せてくれる。
 
遠くに見える青い山は遥かにけむり、泉も静かに奏でている。嶺の上では猿が鳴き、真夜中の月が潤んだような姿を見せ、林の中では鶴が鳴いて、風は爽やかな明け方の松の枝に吹く。そして春風の吹く季節には、枯れた木でさえも神秘的な無言の音楽を聞かせ、また秋の葉がしぼんでしまうと、寒々とした林の中で霜柱の花が砕け散る。
 
玉石を敷きつめた階段には苔が美しい模様をえがき、人の顔も春霞の様な極めてのんびりした表情が表れる。世俗の音は聞こえず、周囲の様子も落ち着いて何の波乱もない。積極的にあれがいい、これがいいという事でとあくせくと努力する様子もなく、一切が静かに落ち着いている。

拙僧(わし)は今日、諸子の前で釈尊の説かれた教えを説いている。特に口を使って説法をしない場合でも、現に釈尊の教えを具体的な日常生活で説いているのであるから、どうしてさらに法堂に上がり正式の説法をしたり、自分の部屋に弟子を来させて問答したり、木槌を打って説法を始めたり、払子を縦にして問答をしたり、「喝!」と大声を出したり、棒で弟子を打つと言う荒々しい教育をし、眉を吊り上げたり、目を大きく見開いたりして、澗の病気が起こったような普段と違う様子をする必要がどこにあろう。

その様な事をすれば、長年の仏道修行をした人々をさらに意気消沈させるばかりでなく、また過去の先輩方が行われた教育に背く点ではなおさらである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき
 
欲望と言う問題について梅原猛さんが西洋流の宗教観を基礎にして、自分たちは煩悩無尽(欲望が尽きない)であると言った。しかし道元禅師がそうでなさそうだから、自分たちは近づき難いと理解したのは思い過ごしではなかろうかという問題を感ずるわけであります。それと同時に梅原さんが「宗教は本来欲望を否定するべきものだ、仏教は本来欲望を否定しているんだ」と言う誤解を待たれた原因の一つは、仏教思想の中にもある訳です。

四諦論(苦・集・滅・道)の三番目に滅諦と言う考え方があります。この四諦論の中の滅諦という考え方については、部派宗教の時代には欲望の滅却と言う解釈が行われていた。だからそういう点から、仏教を単に理論の上だけで勉強していく一部の人々は、仏教思想の中に欲望の否定と言う思想があると考えた。特に明治維新以降、西洋流の思想が盛んになった時に西洋流の思想と結びついて、仏教の一つの理解の仕方として、欲望を否定すると言う考え方があるという解釈が生まれたという事も、別の原因としてある事は、はっきり言えるわけであります。

そういう問題について道元禅師がどういう考え方を取られたかと言いますと「正法眼蔵」空華の巻に、張拙秀才と言う人の詩を引用してこの問題を説いておられるわけであります。「煩悩ヲ断除セバ重ネテ病ヲ増ス」と言う言葉を述べられおります。この言葉の意味は、欲望は我々誰にでも具わっているものであって、それを断ち切ろうとか取り除こうとかすると弊害がさらに増えると言っておられる訳です。
 
そしてまたそれと同時に「煩悩必ず断除ノ法ヲ帯セリ」と言う言葉も述べています。この言葉の意味は、取り除こうとするから欲望は生まれてくる。欲望は断ち切ろう、取り除こうとするところに生まれてくる。だから、断ち切ろう、取り除こうとしなければ、欲望はありえない。そういう主張でもある訳であります。

その事は、45分間の坐禅と言うものは、どういうものかと考えて見ますと、欲望をソ-ッとそのままにしておいたという事。取り除こうとか断ち切ろうとかしないで、ありのままにソ-ッとしておいたという事。ソ-ッとしておく状態では、決して欲望は盛り上がって人の迷惑にならない。ところが欲望を取り除こう、断ち切ろうとすると、跳ね上がって色々な悪戯をする。そういう性質があるという事を空華の巻きでは説いておられるわけであります。

                             つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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